自分を救えない人は他人を救えない  後編 ~勇者は無敵を目指す~ 

王者を目指して三千里

 

恐れからやたらに群れたがったり上下関係を作りたがる人というのは、わりと精神が不安定気味だ。

 

自分もちょっと病んでいたり精神が不安定な時ほどその輪の中に巻き込まれやすい。

 

だが、常に上下でしか人と付き合えない人種は、ところ変わればオセロゲームのように自分が上になったり下になったりしやすいのだと思う。

 

子供時代にイジメられていた人が、大人になってから鬱憤を晴らすかのごとく社会的立場を利用してイジメるというのもよくある話だ。

もちろんみんながみんなそうではないけれど。

 

「やるか、やられるか」弱肉強食の野生動物に近いサバイバル思考なのだろう。

 

彼らが生きる世界に巻き込まれると、勝っても負けてもオアシスは破壊され潤いはなくなり力も搾り取られていく。

気づけば殺伐とした荒野が広がり心から信頼できる仲間もいないという悲惨な状況になる。

 

 

天上天下唯我独尊

 

野生動物ほど明快ではない人間が共存共栄していく上で必要な力は腕力一つだけではない。

体力、知力、気力、人間力、経済力、など様々な要素が絡み合う。

 

人を救いたいと心底思って善意で行っているあの人達も、私も。

 

法を犯しているわけではないので、どちらが悪いという事でもない。

 

三人寄れば文殊の知恵、寄らば大樹の陰、で

人付き合いは基本助け合いだ。

 

みんなと仲良くできたら、より多くの人を愛せたら。それは理想だけれど、そうもいかないのもまた世の中だ。

 

相手を叩き潰す必要もなければ、自分の感覚を無視する必要もない。

どちらも尊重する事が大事だ。

 

生息する場所が違う

落ち着く場所が違う

欲するものが違う

大事にしているものが違う

 

違うからこそ、社会も経済も適材適所で成り立っている。

違いがあるからこそ、面白い。

 

違いを尊重した上で人として対等に付き合えるか、付き合えないか。

 

違いを矯正する人より、違いを許し合える人でいたい。

 

 

あの日、あの時、あの場所で

 

人の力は自分ひとりだけのものではない。

 

自分がどう頑張ったってどうにもならない事は沢山ある。

 

天の采配とでもいうべきか、タイミングや間が絶妙に悪かったり、相性が悪かったり。その逆も然り。

 

頑張って報われる時もあれば、頑張るほど空回りする時もある。

 

人、場所、時の縁や運のようなもの。

 

私に取ったら「悪縁」だと感じたその出来事も、時と場所と人が違えばまた違うご縁なのだ。

 

相性やご縁は「絶対値」ではない。

 

その人の生き方、価値観、感覚により様々であり、相対的なものなのだろうと思う。

 

そして「相手」を通して「自分」の「今ここ」の心の状態を知れるのかもしれない。

 

 

 

強くなりたければ無敵を目指せ

 

布教活動は「いい事をしている」から人を苦しめているという自覚もない。

 

だがマインドコントロールは精神的暴力に近い。

 

自分がお留守になっているほど、隙に付け入られ支配されてしまう。

 

「人を救いたい」という善意は優しさからきているものだとしても

 

他人を救いたい人は、他人を通して自分を救いたい人だともいわれている。

 

インナーチャイルドが癒されていないまま、他人へ投影してしまうという事だろう。

 

歪んだ愛が隠されている事も多い。

 

そういう歪んだ愛の強い人に対して、身を守ろうと闘う姿勢を見せるとお互いに傷は避けられない。

 

身も心もボロボロになる覚悟が必要だ。

 

そこまでして得られるものは何かを冷静に自分に問うべきだ。

 

闘った先に得られるものが「自分の正義」や「負けたくないという小さなプライド」しかないならば

距離を置く(=心を逃がす)事でも自分の正義やプライドは守れる。

 

「相手に分かってほしい、分からせたい」という思いをどうコントロールするか。

 

分かってほしい思いが強い時は他人を母親代わりにしてしまっているのかもしれない。

と自分で気づくだけでもだいぶ違うのだと思う。

 

一度身に付ければ一生OK、みたいな秘伝の技はきっとないから常に自分の心を観る必要があるのだろうけれど。

 

人間である以上、時に弱い自分、時に強い自分というのがいったりきたりするけれど

 

強さというのは、必ずしも相手に立ち向かう事だけではなくて、時には闘わない事を選べる賢さと決断できる勇気を持っていることなのかもしれない。

 

「無敵」って闘う力が強い事ではなくて、誰とも争わないこと、らしいから。

 

 

 

終わり