毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために  ⑪

自由と無法地帯

 

相手の自由を奪う思考の人は、たとえ表向きどんなに「綺麗な事」や「正しい事」を言っていようが、その実は家族であっても他人であっても変わらず「毒気」が強いだろう。

 

綺麗事を隠れ蓑に脅迫観念や罪悪感を植え付けたりするやり方はマインドコントロールだ。

 

 

そして、そういう傷を抱えた人が多く出入りする何とか系セミナーや宗教の臭いがする場所には、当然だが同じような傷を抱えた人が集まりやすい。

 

共感し合えて誰か一人でも友人ができたり、慰め合って励まし合える仲間が出来たらそれは喜ばしいことだ。

 

素敵な出会いは無きにしも非ず。

 

 

だけど、心が弱っている同士で傷がこじれる可能性だってある事も忘れてはいけない。

 

心にまつわる「情報」を学んでいて知識偏重になってしまっている人が

人の心の持つ「問題」「課題」を勝手に見つけたような気になって、相手を下に見て「問題児」扱いしてしまう、という事も起きうる。

 

「経験が浅く半端に知識をかじっている」時ほど、それをついひけらかしたい気になってしまう。

 

そして自分の苦しみから早く逃れたい一心で、自分はもうその「自分の」問題をクリアした気になってしまう。

 

そしてまだ根強く奥底に眠っている「自分の心の問題」を「誰か」に投影してその相手を責める、という事も起きうる。

 

不安が強い時ほど自分より「下」を作って安心したがるので、

そういう不安定な人に関わるとどうでもいいところでいちいちマウントを取られ、要らぬストレスを増やす可能性も高い。

 

精神世界でピラミッド型になっている団体は、そういう素人同然の「自称・名医(迷医)」が発生しやすい、という意味でも気をつけた方がいい。

 

そういう迷医に関わると、問題はよりこじらせやすくなる。

 

利他の精神という善意の思い込みが尚更、事をややこしくする。

 

そうなってしまった時の心の世界は地獄絵図だ。

 

まず、人に寄り添える気持ちのある人や心が健全な人は「悟りましたよ」みたいなマウントは取ってこない。

 

 

トップの人間は、トップになるだけあって何かしらの「力」に秀でている。

 

本人の努力や持って生まれた力なども相まって、豊富な知識や見聞で人を虜にする話術に長けている人も多いだろう。

 

「この人に関われたら人生少し変わるかも」と思わせてくれるような魅力のある人も多いと思う。

 

魅力的に見えるサイコパス気味な人格者も中にはいたりするらしい。もちろん全員ではないだろうけど。

 

的を射ていたり感動するような事を言っていたり、弱った心の救世主になってくれたりする。

 

多くの人の心を捉えられる人というのはビジネスセンスにも長けている事が多いだろう。

 

だが気をつけたいのは、その教えというのは「一対一」で自分だけに向けたものだけではないこと。

 

100人いたら100通りの解釈の仕方がある。

 

たとえ教祖様がとっても心に染みる素敵な事を言っていたとしても、

それを解釈する人間は「自分のフィルター」を通して解釈する。

 

 

キリストの教えが分裂して宗派が別れていったように、教祖の御教えを完全に捉えられる人間は教祖本人しかいないのだろう。

 

それはそれで、合う人のものを人はそれぞれに心に信仰する。それで救われていれば幸せなはずなのだけれど。

 

人間というのは集まってそれを「偶像崇拝」したくなる。

正しいか正しくないかのジャッジもしたがる。

人に勧める「善かれと思って」は相手の受け取り方次第では「害悪」になる。

好き嫌いの感情の機微も様々だ。

 

 

同じことを学んでいても解釈の仕方も人それぞれで、

不健全な自己愛モンスターも紛れていたりする。

 

「自分を責めない=他人を責めてもいい」みたいな不思議な思考になってしまっている人もいたりするし

 

「どんな自分も愛する、許す=何言っても何しても許される」と勘違いして身の回りの人に配慮のない言動を取る人もいる。

 

健全な自己愛と自分勝手は似て非なるもの。

 

「自由」と「無法地帯」も似て非なるもの。

 

自分と他人の許容範囲が違うのは当たり前。

 

「だから何をしようが知ったこっちゃない」ではない。

 

色んな考え方の人間がいる中で人付き合いを円滑にしていくためには「心」という曖昧で見えないものに対し一定の指標が必要だ。

 

だから共生社会にはマナーや法律というものが存在する。

 

 

物事を二元論でしか捉えられなくなってしまう時に人は、関わる人を窮屈で冷たい気持ちにさせる。

 

 

 

 

続く