評価の罠
小さな頃から評価されることに慣れてしまって麻痺したまま大人になると
ほんとは自分が悪い訳でもないのに
自分を責めたり
嫉妬心が湧いてしまう自分の素直な感情を悪者にして罪悪感を感じてしまったり
苦手だと思うことを無理矢理好きになろうと思い込んだりする
まず、複数人がいるところで誰かを評価するってこと自体が当たり前に「されていい事」ではないことに気づこう
この社会で育ってきた私たちは、人が集まれば比較や競争が生まれるのは仕方なくある意味自然なことなのかもしれないけれど
誰かが誰かを評価するのはそれとは全く別問題
ちなみにいいね、イヤだね、好き、嫌い、は感想だから何も悪くない
自分が誰かに感じることもふつうだし、その逆も然り
他人を評価することは単なる感想とは違う
立場上、致し方ない学校の先生や会社の上司はまた別として
先生でも上司でもない人でこの手法を使ってくる無礼者がいる
それは関わると面倒な危険人物
さっさと距離を置こう
ただし、複数人がいるところで分かりやすく否定するだけであれば大体の人間は嫌悪感としてその暴力性に気づけるのだけれど
「褒める」というちょっと厄介なテクニックも織り交ぜながら他人をコントロールしてくる
本人に面と向かって褒めてコントロールする事もあるのだけど
一番めんどくせーのが、本人のいるところでも、いないところでも、あえてその人を褒め称えてみたりする
素直に出てしまったピュアな感情ではなく、周囲の人間の心と行動にアクセスし、何らかのリアクションを期待しての言動だ
悪趣味でいやらしい
そして、関係者の皆様の無意識に抱えている競争心や嫉妬心や劣等感を煽り、罪悪感を刺激してくる
評価に飼い慣らされた人間はまんまとコントロールの罠にハマっていく
褒められている人を落とすような事は普通なかなか言えないが
相対的に自分のプライドを保つために人を落としてしまいたくなるのもまた人間だ
劣等感が疼く時や余裕の無い時ほど負の感情は湧き上がり
無意識にその相手に嫌悪感を抱いてしまう人もいるだろう
仮にその褒められている人に嫌悪感を抱いていたならば、それ自体が罪悪感となり自分が嫌なヤツだと思わされる
でも、誰かが一緒になってその人の悪口を言えば自分が肯定されるので、今度はその感情を正当化するようになったりもする
それがエスカレートするのがイジメだったりする
集団で空気感を既に支配されていると起きやすい
褒める、称賛する=イイ事、正しい事としか思えないと、そこで仮に嫉妬心や異論を無意識で感じていたとしても、それは見ないことにする
その感情を悪者にすると罪悪感になる
醜い感情を露わにしてしまう自分、もしくは他人を責め、隠そうとするほど必死になる
それはすでに訳のわからぬストレスにまみれている証拠
モヤモヤしたらそれは既に「負」に巻き込まれている
そうなったら支配者の思うツボ
醜い自分、醜い他人をころし合う気持ち悪い集団の出来上がり
ただ、危険人物は褒めてコントロールする一方で、気に入らないとターゲットを単純にディスる事もある
その本意は同じく複数人を一斉に自分の思い通りにするための罠のようなもの
忌々しいほど人をよく観察しているだけあってその発言はなんだか的を射ていたりして中途半端に説得力を伴うからこれまた厄介
さらにめんどくせーのが、悪口を言っても自分を正当化する策略家なので正当防衛みたいな雰囲気が作られたり、変に愛想がよかったり懐に入ってきたりして人を簡単に味方につける術を心得ていたりする
ピュアな仔羊達は、自分がそう言われることを避けるためにその危険人物の言動を守り始める
年上だろうと先輩だろうと関係ない
仔羊達は意識なんてしていない
無意識のうちにじわじわとコントロールされている
そうして自分の手を直接汚すことはなく、誰かに恨まれることもなく、見事に周囲を思い通りに操っていく事に成功する
褒めているのだってその相手への真心というよりは単なる餌だ
簡単に洗脳されるチョロい仔羊共に毒餌をバラ撒いてるだけ
だんだん私の言葉が悪くなっているけれども、そのくらい薄汚れた心でこちらも身を守らないと、知らない間にぐっちゃぐちゃのドロドロの、ストレスまみれになるよ
平和に築けたはずの人間関係だっていつしか空気悪く汚染されていたりする
目には目を、じゃないけれど、毒には毒を、だ
自分の中にある毒で相手の毒をちゃんと跳ね返せ
人なんだから嫉妬心や競争心や劣等感はあって当たり前
確かにそれを剥き出しに他人を攻撃してしまったらそれは醜い姿かもしれないが、嫉妬心や競争心や劣等感は、感じる事自体は悪いことでも何でもない
人としてふつうだ
ただそれが自分の中にもあると知って、そんな自分ともうまく付き合っていく事を自分の頭で考えて消化する努力をする
その努力を怠って、醜い自分を見ないフリしていると餌食になるんだよ
自分をそんなに綺麗な人間だと思うなよ
内側で燻っているだろう腐敗した行き場のない負の感情は
無理してると臭ってしまうんだよ
偉そうに、キツい言い方でごめんな
でもセルフコントロールやストレスマネジメントにはそれは大事なことだし
自分の醜さも受け入れるというのは、美しくありたいのなら努力義務の一つだと思う
気づけば自分も、評価の中だけで存在しないように心がけていこう
なんだか物騒な物言いになってしまったけど、要らぬストレスを減らすための護身術でもあるんだよ
気づくべきヤバさ
あなたはおかしい、かわいそう、
私は(俺が)正しい、あなたを使ってそれを証明してやる
という前提が人付き合いにある人間とまともに接してると
おかしくなるし、見事にその通り素直に支配されると知らない間に病んでしまう
これは無意識の話
表面で判断するなら、他人をコントロールしたがる人間は危ない
大体相手をモヤッとさせたり、ほんのり心をえぐるようなことを言ってきたり、煽ってきたりする
正しいだけの人間なんていないだろうし、間違いだけの人間なんていないはず
時にはあなたも正しい、時には私も正しい
時にはあなたも間違ってる、時には私も間違ってる
あなたはそう思うのね、私はこう思う
そう考えられる人間同士なら、支配関係は作られない
無駄に他人を煽るようなことも言わないだろうし、モヤッとさせることもそうそう言わない
人間だからたまには失言しちゃったり気分に左右されることくらいはきっと誰しもあるだろうけれど
その人と会った後は必ずモヤっとするとか、なんか気分落ちるとか、自分が惨めにさせられるような気になったなら、それは既にアウト
その人のことを苦手な自分、何なら嫌い!と思ってしまう自分を認められることはある意味健全な証拠
自分と他人の境界をちゃんと引いて自分の軸をしっかり持つ
相手が自分をどう思っているか
よりも
自分が相手をどう感じるか
ただ、苦手とか嫌いとかのネガティブな感情は思い込み過ぎたり、誰彼構わず口に出したりしてしまうと好ましい結果にはならないから、自分の中で留めて静かに俯瞰できたらそれがベストなのだと思う
教育する立場や正解に導く必要がある仕事の場面でも、威圧的になる必要は無いはず
たとえ仕事で上司と部下だとしても、健全ならば人として尊重する姿勢は崩さない
仮に一方的に上下関係を作ろうとしても、片方が正常な判断が出来れば心の中までは交わらない
信頼関係を築くとはそういうことから、尊重ベースの積み重ねだと思う
おかしな人はまともに相手にしちゃいけない
関わらなければならない関係性だとしたら、挨拶や社交辞令を織り交ぜつつ適当にあしらう
心から真面目に取り合わない
それも健全な心を守るうちの一つだ
どっちの気持ち、感情に敏感か
精神が健全な人(時)は、自分の気持ちや感情にちゃんと敏感で寄り添える
精神が不健全な人(時)は、他人の気持ちや感情に敏感で必要以上に寄り添ってしまう
敏感で寄り添える、大切にできる、否定しないことはいいことかもしれないが、まずは自分ありきが大前提の話
どっちかに偏りすぎて、どっちかに鈍感すぎても敏感すぎても人間関係がうまくいかない
自分が少しでも嫌だと感じたのならそれは正解
我慢したり鈍感になったりするのは不健全の元
でもそれは=他人を攻撃していいことではないし
他人に我慢をさせればいいってことでもない
だから人間関係って難しいのだろうけれど
そこの分別さえ上手くできれば、健全な人間関係を築いていけるのだろうと思う
女の美学 ~腹黒は悪じゃないよ~
病まないためには
よく言われるように
いい人になろうとしない、我慢をためない、感情鈍麻をやめることは重要だ
そのためにできることは
いちいち小さい感情を自分でちゃんと拾う
器は大きくなくてよいと知る
小さな小さな、どうでもよい、器のちっちゃい自分の感情をちゃんと見つけにいってあげる
たとえば、(言葉は悪くなるが)
この言葉、イラッとくるわ
この人、好かんわ
その言葉、聞き捨てならんわ
はぁ?何言っちゃってんの
何?その表情
そのマウント、だせぇ
とか
心の中の超絶ネガティブな黒々した自分を見ないことにしない
臭いものに蓋をしない
気づいてあげるだけでよい
それはもちろん口には出さない方がいいが、否定しなくてもよくて、むしろ否定しちゃうと行き場を失った感情が悪さをするから、まるっと肯定する
ただの感情だから、悪いもよいもなくて
心地よくないものに反応する人間の防衛本能みたいなものだから、そう思っても気にしない
綺麗事で言い聞かせようとするとか思い込ませるのは危険ですのよ
黒くていいの
世の中に、不必要な色はないの
腹黒、万歳
処世術も大事です
女の美学 ~パーソナリティ障害について~
(長文です)
「パーソナリティ障害」が疑われる人は案外と多く社会の中に普通に生息している。
もっと認識が一般的に広まって、付き合い方とか対策とかをなるべく多くの人達が共有できたらいいと思う。
とっくに知っている人、対策を分かっている人は出来る限り広めてほしいと願う。
ネガティブキャンペーンとか批判とかではなくって、お互い傷つけあうことを少しでも減らすためにはまず、理解が必要だと思う。
理解した上で、どうするか。
そこが難しいし、遅れているし、認識不足によって要らぬ怪我人が増えてしまう。
そういうわたしも10年前は「パーソナリティ障害」というものを知らなかった。
知ったきっかけは、とあるパーソナリティ障害の方との出会いだった。
少し余談になるが、その障害を知ってからはもしかしたら自分の「毒親・家族」問題にもパーソナリティ障害も関係しているのでは、と思うようにもなった。
一旦話を元に戻す。
今だからこうして冷静に書くことができるけれど、当時は人生で初めて味わうほど強烈な「他人への恨み、怒り、憎しみ」が自分を襲った。
ちょっと暗い話になってしまうので、ここから先は明るい話や希望を求められている方は遠慮して頂いた方がいいかもしれない。
当時、わたしは既にボロボロの状態だった。
実家の壮絶な揉め事で心はかなり削られていたが、環境の変化も追い打ちをかけていた。退職、引っ越しを経て、全く違う環境でリスタートを図るも、長年の親友との別れなども重なってしまい、まさに泣きっ面に蜂状態。
そんな時に新たな環境で出会ったそのとある人(同性)は、意気揚々と興味津々でわたしに近づいてきた。
人生に「タラ、レバ」は無いとはいえ、あの時のわたしの環境や精神状態が平常運転の安定したものだったら、あんな人とご縁は結ばなかったんじゃないかと思う。
冷静に判断すると、だいぶ失礼なことを平気で言ってくる不躾な人だったし、距離感もちょっと変だった。
そういう判断を狂わせるくらい、きっとわたしの心はしんどくて寂しかったんだろうと思う。
そういうオーラもきっと出ていたんだろう。
その人は、妙に怒りを誘発するようなKYな発言を平気でするわりには、妙なところでめちゃくちゃ人の顔色や空気を伺ってこちらの出方を異常に気にしていた。
そして、そういう獲物をかぎ分ける能力も異常に秀でているんだろうと思う。
たとえが悪くて申し訳ないが、血に飢えたドラキュラみたいなところがある。
目に見えない精神状態の例えになるが、流血している人間を上手く取り込むために本人なりの様々な策を講じてくる。
どうやらKY不躾発言はわざと怒りを煽るためのものらしく、本人も自覚していて「人を怒らせてしまう・・」としおらしく悩んでいるような素振りを見せていた。
寂しくて不幸そうな人に、頼まれてもいないのに好き好んで積極的に手を差し伸べにいったり、悩みや個人情報をお節介に聞きたがる人、相手の弱みを知りたがる人には大体何かあるとわたしは思っている。
親切心から行なっているよ自分は、っていう人がいたら謝っておきます。
みんながみんな、ではないのかもしれないし、そこまではわたしにも分からない。
自分の体験からでしか物を言えないが、少なくともその人の存在はわたしの人生に確実に影を落とした。
わりと過ぎたことには執着しない気質であるわたしですら、しばらく過去を引きずった。
前を向けないくらい、精神状態も生活も破壊されてしまった。
要は、何も出来ない状態になった。神経衰弱から食欲睡眠が不安定になり悪化、薬の影響もあって半年間ずっと寝たきりの廃人になった。
その状態で前を向くのは難しかった。何もできない、人並みすら出来なくなってしまった自分に生きている価値など無く、絶望と恨みと怒りに打ちのめされていた。
一応書いておくと、被害者的に「破壊された」と書いているが、もちろんその原因を作らせてしまった自分の甘さ、弱さが根本にあることは前提だし、その事だけ、というより家族の問題や転職や環境の変化など諸々の複合的な要素が重なったダウンだったのだと思う。
人生のストレス指数という目安になる表があるそうで「死別」「離婚」「転職」「引っ越し」とかの人生を左右する出来事は上位。そしてその1個だけでもストレスレベルはマックスに近いものもあり、何個かが同時に重なるだけでキャパを超えてしまうこともあるらしい。
つまり元々の環境的な要因でわたしのストレスレベルは既にマックスに近く、そこに加えてそういう強烈な刺激物からのストレスを浴びてやられてしまったというわけだ。
だが、毒親云々あれど基本性善説でわりとどんな時でも明るく前を向く努力をして生きてきたわたしにとってある意味その人は「人間の闇」を大いに知るきっかけになった人でもあった。
毒親問題も、自分がそこまで闇に堕ちたからこそ見えた事もきっとある気がする。
そこから立ち直るまでは話が逸れてしまうので省くけれども、その出来事以来、わたしの出会う人には「○○性パーソナリティ障害の疑いのある人」というキャラクターが加わった。
それまではなぜ出会っていなかったのか不思議なくらい、それ以降は疑わしき人物にまぁまぁの確率で遭遇することが増えた。
心理学的に、意識し始めたものほどその情報が目に入ってくる「カラーバス効果」というヤツの仕業なのか、
それまでは出会っていてもただ気づいていないだけ、被害も受けていないから分からなかっただけだったのか、
それか「毒親問題」でも散々書いてきたように「自分の捉え方、対処の仕方」によってそういう人間を引き寄せやすくしてしまっていたのか、
そこら辺はよく分からない。
けれど、少なくともそれを知る(体験する)前よりは明らかに自分自身の性格も変わっってしまった事実はある。
初対面の人に対する警戒心とか、初対面じゃなくても構築していく人間関係で自分の中のルールとか判断基準とかコミュニケーションの仕方はけっこう変わったと思う。
それはきっと良くも悪くも、だ。
良く言えば、以前に比べたらそういう人間に利用されたりサンドバックにされるほどお人好しじゃなくなったし、元々持っていた冷静さを改めて取り戻すきっかけにもなった。
悪く言えば、以前に比べたらそうじゃない人間も含めて全体的に人に心を開かなくなった分、仲良くなるスピードも確率もかなり低くなった。まぁこの辺は年齢的なものも多少はあるように思うけれど。
物事には必ず両面がある。良きにつけ悪しきにつけ、事実を受け入れて生きていくのも前を向く方法だと思うし、それが今のわたしであり、変わらないし、誰かの力によってもそこは変えられない部分だ。
悩んでもいないから変える必要もないのだけど。
だから、たとえばわたしと出会った人がわたしのことをネガティブに評価したとして
わたしのそういうところを変えたくて仕方ないくらい嫌だという人がいたならば、それはその人の傲慢というものだと思う。
わたしは変わらないのでどうぞ嫌って去っていってください、とすら思う。
そうひん曲がってしまうくらい、毒親、家族との離別を含め、パーソナリティ障害の人からトドメを刺された一連の出来事が及ぼした影響は強烈だった。
「ふつう」の人と同じく「善意」で付き合ってしまった過去の自分の無知さ、甘さ、もう今はそんな過去の自分も許しているし、その人のことも思い出すことはほとんどなくなったけれど
たまにそういう疑いのある人物に出会うと、アラートが発動する。
下手な綺麗事は禁物だとわたしは思っている。
愛で人は変わる、こともあるだろうけど、変わらないこともある。
勘違いされるような優しさは振り撒かない。というより自分の器以上のことはできない。つまりわたしはそこまで愛の深い人間ではないから必要以上に入り込まない。
表面上、相手にとって傷つくような冷たい素振りとかはもちろんしないし、失礼のないように接する優しさ(というか礼儀)は必要だが、それ以上の情は不要。
相手の要求がエスカレートするだろうなと思ったらそれ以上挨拶と最低限以外は関わらない。
だから、なんも知らない呑気な人からすると多分わたしは「冷たい人」「ドライな人」と陰口を叩かれていたりする(と風の噂で届く)
でも、わたしは何と言われようとそれでいい。
陰口なんかに怯えていい人ぶって神経すり減らすなんてバカげている。
神経すり減らすだけならまだ及第点、生活ぶっ壊れたら誰のせい?
立て直すまでの道のり、失う時間、お金、体力、気力。
傍で支えてくれる人達の気苦労。増える白髪、皺、苦労で老ける顔。
立て直せればまだいいけど、立て直せない可能性だってある。
後ろ向きでシビアかもしれないけれど、それも現実。
でもわたしもきっと、あんな地獄のような思いをしなきゃきっと今でももしかしたら「優しさ」とか「いい人」とかの他人からのどうでもいい評価を気にして振り回されていたのかもしれないとは思う。
ちなみに当時出会ったその人は自分で「境界性パーソナリティー障害」だとわたしにカミングアウトしてきた。そこでわたしは初めて知った。
調べたら怖くなってしまい、付き合いをやめたくなったのだが時すでに遅しだった。
そういう風に自分でカミングアウトする人もいるのだろうけど、その辺でたまに出会う疑わしき人物は自覚無だと思われる人も沢山いる。
だから余計にこちらがちゃんと知識をつけて対策を講じないといけないよ、と思う。
わたしは今までも何か所かのコミュニティに出入りしてきている方でわりと広く人間関係を経験している方だと思うけれど、現在進行形でとある一つのコミュニティに自己愛性パーソナリティ障害だろうと思われる人がいる。
知らないで「善意」で付き合っている人達は見事に全員利用されている。
あれだけよくしているのにも関わらず、気に入らない事が少しあればすぐにその相手を悪く言い、別の誰かを都合よく言いくるめまた利用していく。その繰り返し。
で、その人物たった一人の影響でコミュニティ内の空気はだいぶ悪くなる。
人間関係の基本「信頼」がことごとく壊されていき、人と人の亀裂を作る。
言葉を選ばず言ってしまえば一人の「疫病神」に憑りつかれる感じだ。
モヤっとする、イラっとする、ような事をわざと言ってみたり、疑心暗鬼にさせるような事を吹聴して回り、人を洗脳していく。
まぁ人間みな誰しも多少はそゆとこあるんじゃないかとは思うでしょ。そういう可愛いレベルの話じゃないのです。
ちょっとのブラックなところとか、ちょっと意地悪な気持ちが芽生えちゃったりとか、そんなのは正常な範囲であって、自覚があったり罪悪感に苛まれたりするならおそらく大丈夫だと思う。
正常な感覚の「良心」「愛」に訴えようとすればするほど泥沼に陥るのが「障害(病)」。
「障害」と名がついてしまう人達はとにかく「自分」の立場、保身、権威が守られれば他人の事なんぞ本気で考えてもいないから(考えてはいるのだけどまた別の独特な価値観に基づいた己の正義がある)、用無しになったらゴミのように捨て、挙句悪評を吹聴して回り、絶対に自分が悪者にならないように人の心理を上手く突いて回る。
ただ、そう見せない「演技」はなかなか巧妙に上手い。
だから厄介。疑うことの知らない人はあっという間に洗脳され味方に入れられてしまう。
ごめん、ふつうに超悪口になっちゃったけど、だってこれも事実で、残念ながらこういう人は、「変わる」「変わらない」とかの次元じゃないところを生きている。
本来専門家に入ってもらった方がいい案件で、素人が下手に太刀打ちできない一種の病気のようなもの。
失礼な発言多々だし書いていて気分が悪くなるんだから、読んでいて気分が悪くなりますよね。
ごめんなさい。
パーソナリティ障害の人を貶めたいわけではないのだけれど、そのくらい、付き合い方が難しいし扱い方に困るし、なによりまともに付き合うとこっちの精神が削られるから身が持たない。
身内だとか大切な人とかがそういう障害をお持ちなのであれば、どこまでもいく覚悟とか深い「愛」が試されるのではないかと思う。
あとは「移る」こともあるらしいです。
もらいやすい体質の人とか、ミラーニューロンが発達している共感性高い人とか。
深く感情移入して付き合うほどに、自分もそれっぽい人になってしまうらしいので。
伝染病の気も持ち合わせているのだね。
移っている時に自覚があればよいけど大体洗脳や伝染って無自覚のうちにだから恐ろしい。
わたしは専門家でないので安易なことは言えないですが。本当に専門家の力が必要な「障害」「病気」というカテゴリーに入るのだから
そういう事を無自覚に「普通」と同じく紛れてしまうこと自体がちょっと問題なんじゃないかと最近わりと真剣に思ったりしている。
これといった解決策を提示できるわけではありませんし、どちらかというと問題提起で終わる感じですが、わたしの酸っぱい経験がどなたかのお役に少しでも立てればと思います。
とても長くなりましたら、ここまでです。
お読みくださりありがとうございました。
女の美学 ~悪の知恵~
うちの親は、品行方正だった。
人としての在り方としては、決して間違ったことは教えられていないと思う。
母親が信仰していた宗教問題の偏った思想はまた別として、「人として」のモラルやマナー。良心、のようなもの。
だから、人間関係でなんとなくの協調性とか、いざという時の良心に委ねるなにがしかの判断とか、そういう最低限の社会性は身に付いているんだと思う。
そしてその社会性により自分の身が知らぬ間に助けられていることは、きっと無自覚でも沢山あるのだろうと思う。
そういう点では、親の教育、姿勢、背中で見せてくれた様々なことに感謝している。
ただ、この玉石混交魑魅魍魎な世の中を渡るスキルとして考えた時には、うちの親の品行方正な教育、姿勢はちょっと物足りなかったんじゃないかと
歳を重ねれば重ねるほど、様々な経験を重ねれば重ねるほど、少し思うところがある。
もちろん、親が何でもかんでも教えてくれるわけじゃなし、
経験していくことが人生そのものであって、もう親が云々言う年齢でもないのだけど。
親と同じ道を歩んでいるんでもないから、自分が経験して初めて分かることがあるのも当たり前で。
だからこそ、こういう風にしてブログなんかに書いて世の中に投げているのかもしれない。
若い頃の昔の自分が読んでくれたらいいな、みたいな感覚で。
先生と親くらいしか助言をくれる大人がいないって、けっこう狭い視野で苦労しちゃうこともあるんじゃないかと思う。
親は自分の知っている以上の世界を子供に見せてあげられないし、先生も然り。
想像でモノを言うのと、経験者がモノを言うのとではやっぱり全然違う。
経験者の失敗談とか、生々しさのある体験談とか、大人でも悩んでいるんだというリアルな生の声とかって、少なくともわたしが子供の頃は聞けなかった。
幾つになっても悩むことはあるし、幾つになっても子供みたいな感情に揺さぶられることはあるし、幾つになっても完璧なオトナになぞ、なれない。
弱さを見せるって、利害関係のある近しい関係だと出来ないこともある。
親、先生、という立場上、必ずしも弱みを見せればいいとも限らない。舐められすぎてしまってはよくないし、子供だから見たくないこと、見せたくないことだってあるだろう。
そういう点ではほどよい距離感のある大人だからこそ、言える、聞ける、ってこともあるんだと思う。
損得、駆け引き無しでさらけ出せる、こういう場って貴重だ。
匿名だからこそ言えることもあるし、書けることもある。
そこら辺は諸刃の剣だけれども、必ずしも匿名が悪いとは思わない。
誹謗中傷はダメだけど、リアルじゃないからこそ人間の生々しい本音が聞ける場ってけっこう大事なんじゃないかなと思う。
大人も子供も、リアルの社会では気を遣うからこそ言えないことがある。
相手を想うからこそ、口を閉ざすことがある。
自分の身を守るために、本音なんか言わないことは大人の世界で山ほどある。
だから、人の本音が聞ける場は貴重。
わたしにとってはこの場だからこそ書けることがあって、自分も救われている。
それが回りまわって誰かがスットしたりハッとしたりクスッとしたりしたら尚、いいなと思う。
特に、若い世代の子に響いてくれたらいいなと思う。
生きる上で「人として」大事な品行方正な社会性は、大抵親や先生が教えてくれる。
親や先生からは聞けないような本音や「綺麗事」とはまた違うリアルな知恵を授ける大人って沢山いていいと思う。
悪の道に誘導する気はさらさらないし、基本「人として」のマナーやモラル、良心、社会性は大事だと断った上でやや乱暴な言い方をすれば、多少の「悪」知恵ってのは、世渡りに必須なスキルだと中年になったわたしは改めて思う。
だからこれからも、いい子ぶらずに正直な本音をここで書いていこうと思う。
女の美学 ~気にしぃか?そんなあんたは鈍感すぎ~
少し前の話。とあるところに、人の「繊細さ」をバカにしてくるお方がおられました。
気にしぃ、とか、考えすぎ、とか。それは何度かに渡りまぁまぁしつこく言うてはりました。
人生の中で何度か言われたことはあるので自分の繊細さは自分でも知っている。
だが中年になった今、面と向かって親しくもない相手に失礼を言われる機会はそんなにない。
人の動向を逐一気にして悪口を言いふらす気にしぃ野郎であれば、人間関係に損害を被るので言われるのは分かる。
わたしはそういう方の気にしぃ野郎ではない。むしろ超平和主義。揉め事を極力事前に回避すべく日々尽力している方の民。
言われる筋合いはまったく無い。
だから、ほんとはわたしも面と向かって、とことん泣くまでそのお相手に詰問攻撃お見舞いしたかったんですわ。
いや、でも立場的にな、したら終わり、まずいから踏みとどまるんですわ。
でも言われたイヤな響きってそう簡単に忘れない。
だからそんな我慢した自分を褒め称えつつ、ここは一つネタとしてこちらで盛大に呪詛を唱えて昇華させることにする。
ここで言わせてもらいますわ。
だから、あなた、なんか全体的にダサいんじゃなくって?
・・言うたった
面と向かって言うたらあかんやつ
身も蓋もない
んで、泣かれたりなんかしたら、被害者が加害者パターンで
言うた方が性悪なりますわな
まぁ許せ。
これでおあいこっちゅーことや。
でもよ、舐めんなや。ここで終わらせないぜ。
まだまだ、とことん言うたるわ。
あなたがそうやって自分以外を引き下げたい理由は色々とあるのだろうよ。
だがこちらから言わせてもらうと
世の中のありとあらゆる「美」には繊細さが必要不可欠なんですのよ。
繊細さ、感受性、感性。
気にしぃ・・って嫌味言うんなら、「感受性強いね」とか「感性豊かね」とか言ってくんねーかな。
ま、そんな気回せる素敵な人なら、そもそもそうならんわな。
人がイラっとするような事をわざわざ言い、繊細さを貶めたとて。
果たして鈍感な人に何のメリットがあるんでございましょう?
醜さが増すだけだぜ。
逆にわたしの繊細さが、あんたにとってデメリットになった。
あんたの隠れた何かに刺激を与えてしまったのでしょうか?
トドメを刺すようで恐縮ではございますが、
繊細さが無い人が作り出すモノや描き出す世界観って、やっぱりそんな感じなんですよ。
平気で頓珍漢な事言ってまう人を取り巻くモノ達は、なんだか全てにおいてセンスがズレてたり。
わたしは相手にそんな事、よう言わんけどな。
でも正直に言うと、美しさ、美味しさに欠けるんですわ。
欠けるだけならまだしも、
この際ハッキリ言わせてもらいますわ。
ダサいのや。
ダサいものというのはもう救いようがないんですぜ。
一応言っとくが、人としてダサいのとセンスがないのとはまた別の話や。
ほんであんたは両方なのや。
センスがないというのは感性が鈍いということ。
感性が鈍いということは感受性も繊細さも鈍いということ。
センスは磨けるが、素直さがないと全く磨かれない。
素直じゃないと凝り固まってもっさりする。
たとえダサくても、心まで醜くなければ許される。
心の美しさでダサさなんていくらだってカバーできる。
ダサくても、懸命は美しい。
ダサくても、人に優しい人は美しい。
ダサくても、愛情あふれる人は美しいのや。
問題なのは、ダサい上に、人としてもだせぇこと言っちゃったりやっちゃったりする奴。
メリットといえば、ちょっとやそっとのことでは響かない、打たれ強いというより打たれていることを理解していない。なので頑丈なことくらい。
なんだか人間とモノ、似てますわ。
鈍感なものはえてして頑丈。
繊細なものはえてして壊れやすい。
どっちがいいかなんて知らん。
ただ言えることは、どっちもこの世には必要ということ。
そんで、今の日本社会で重宝されるのは大量消費に耐えられる頑丈さ、大量生産効率主義に都合のいい鈍感さ。
どっちも一長一短。
だからディするなっちゅーねん。
あんたが優れているとかでも無いわ。
適材適所。
繊細さが活かせ必要とされる環境
鈍感さが重宝され必要とされる環境
その違いだけなのかもしれない。
日本社会で長らく続いてきた雇用体系は、圧倒的鈍感さが有利。
鈍感な戦士の方が、集団の駒としてはありがたい。
だから、繊細さはネガティブワードとして扱われる。
でも、鈍感さのマジョリティに打ち負かされたくない。
ということで、まとめ。
わたしの人生においては感性が鋭い方がやっぱ得なんですわ。
繊細だと傷つくことも多いし、悩むことも落ち込むことも多いかもしれないけど、それと同じくらい、得ていること、きっとあんたよりあるのよ。
感じる量に比例して悪いこともいい事も同じくらいの数。
そうやって、感性も感受性も含め豊かに生きてるってことよ。
だからわたしはこのまんま、繊細さも愛していくのよ。
むしろもっともっと、感性を鋭くしよう思てますのや。
あんたがまったくついてこれんくらいに鋭くな。
そして、最後に言っとく。
繊細で、かつ美しく、考え抜かれたもの、鍛え抜かれたモノは、時を超えて長く愛でられる。
そうして作られたいいモノは長持ちしますのや。
時々修理しながら、メンテしながらずっと使えるモノは、人の心も生活も豊かにしてくれますのや。
美しさって、そゆことちゃいますのん
繊細さを、美しさに変えられるのは繊細さんたちの長所と思てます。
お節介言いますが、あんたもちょっとは、感性、磨いたらどうや?