女の美学 ~邪気を跳ね返せる女でいる~

選べる強さ

 

たまに遭遇する「あからさまな邪気」を持った人がいる。

 

「邪気」っていうとなんともスピリチュアル的な響きだけれど、要は「悪意」のある言動が見られる人っている。

 

すご~い!って褒めるフリしてバカにしてくる、とか

だぁいじょうぶぅ~?って心配するフリしてその実ほんのり不幸を楽しんでいる、とか・・。

 

怖いんですよ、その「気」が。

 

それで、そういう人って必ず相手に「モヤ~」っと重ったるい何かを残す。

 

それが狙い(きっと無意識)だろうし、相手の自己信頼とか自信を奪って落ち込ませる事に「安心」したいんだ。

 

だから、まともに付き合ったら不思議と自分まで「なんか不幸な女」の魔法をかけられなんとなく運気が低下してしまう感じ。

 

相手の思惑通りになってしまえば格好の「餌」だ。

 

 

そういう事を「鏡の法則か?」

とか掘り下げて独り悶々と考え出すとキリがない。

 

そりゃ人間だもの、無邪気な赤ちゃんでもないオトナだもの、自分にも邪気が全く無い事はない。

 

どこか欠けている自尊心の何かや、家族に対する歪んだ価値観の何かが引っかかって反応してしまっているのかもしれない。

 

心理学的に考えられることを総動員してみても、やはり最終的に神様でないと出会ってしまう原因はよく分からない。

 

イヤな人に一切出会わないというのも生きていると難しかったりする。

 

出会ってしまうのは仕方がないから、出会ったとしても引っかからない、邪気を跳ね返せえる自分になるしかない。

 

根本的な解決法といえば、とにかく自分の内面と向き合う事になってくるのだけど

 

やはり時間もかかるし、根気もいるし、プロの手を借りたりする必要があるかもしれない。

 

今回はそういう抜本的解決法は一旦置いといて、即効性のある方法の話だ。

 

シンプルで、考えなくてよくて、効果はバッチリだ。

 

それは

 

波長を合わせない

 

という事。

 

言葉も、行動も、目線も、全て。

 

あからさまに無視するとか、目を合わせないとかはダメで。

 

かえって敵意を持たれて執着されちゃうから

 

さりげなく、さらっと、がポイント。

 

 

どうしても避けられない状況にいるとして、イヤ~な重ったるい邪気を感じたら

 

トイレに行くフリしてサッと席を立つ

電話に出るフリをして会話を途切れさせる

荷物を取るフリをしてバッグの中をゴソゴソ探る

誰か他の人や物が通ったらそっちを見て「気」を逸らせ集中力を途切れさせる

身体を動かして伸びをする

肩や首を動かす

手や腕や腰や足を動かす

目や口を動かす

 

大きな行動から小さな行動まで、その場のシチュエーションで出来る限りの「動く」ことをとにかくやる。

 

漫画みたいな感じを想像してもらえると分かりやすいけど、単純に相手の「波動拳」を「よける」イメージでOKだ。

 

頭、顔、目、肩、腕、手、胸、腹、腰、足、身体の全て、相手の波動を受け止めないようにする。

 

波動とかいうと目に見えないものだから意味分からないかもしれないが、確実にそこにそれは存在していると思って「憑かないようにする。憑きそうなら払う」感じ。

 

イヤ~な顔でやってしまうと気づかれるから「真顔」か「笑顔」で「さらっと」ね。

 

とにかく「自分から」アクションを起こすこと。

 

更なるコツは「サッと」「シャキッと」素早い行動を心掛ける。

 

隙を与えないくらい凛としていることが望ましい。

 

受け身で相手のビームを受け続けてしまう事だけは避けること。

 

そのために日頃から意識して出来るだけ「シャキっと」動いていると、いざって時に役立つよ。

 

 

 

終わり

 

 

 

 

 

女の美学 ~嫌いな他人の調理法~

調理の匙加減

※自分に対して害を及ぼす強烈な人(毒親やパーソナリティ障害が疑われる他人)は除きます。

 

もっとライトな関係性(職場や趣味仲間や親戚や近所付き合いなど)での話。

 

 

 

嫌いな人が丸ごと食材だとしたら、嫌いな食材を丸ごと食べろというのはちょっと雑で暴力的な考え方だろう。

 

無理やり好きになれ、というのも同じく暴力的な考えだ。

 

じゃあ、嫌いな食材だから雑に扱っていいか、嫌いだから捨てていいか、というのも暴力的な考えだろう。

 

食材にとって失礼だし自己中心的すぎる。

 

 

食べ物と人を全く同じようには捉えるのはやや無理があるけれども

 

嫌いな人を好きになることは難しい。

 

人間だもの、好き嫌いあって当たり前。

 

嫌いな人は嫌いのままでいい。

 

 

そしてそれは「お互い様」だ。

 

もしかしたら誰かも自分の事を「嫌い」って思っているかもしれない。

 

何気なく発した一言とか、そんなつもりじゃなかった会話とかリアクションとか、

 

そう、自分では全く無意識で行っている数々の言動が、誰かの癇に障っていることだって普通にあり得る。

 

人間というものは感覚的なものであり、常に移ろい続けていくものなのだろう。

 

だから、人間関係に「正しさ」を持ち込むと崩壊する。

 

嫌いのままでいいからって嫌いを正当化して攻撃するのはダメだ。

 

 

人間関係は「適当」が一番だと思う。

 

 

で、具体的にどうしたらいいかというと

 

意識しすぎないこと、嫌いと思い込み過ぎないこと

 

これが出来ることが「嫌いな人沼」から抜け出せる近道だ。

 

「嫌いな人」がいなくなってくると、平和で幸せな世界が広がってくる。

 

 

ここで勘違いしてはならないのが

 

「嫌いな人がいなくなる」≠「好きな人だけになる」

「嫌いな人がいなくなる」≠「みんなと仲良くしなければいけない」

「嫌いな人がいなくなる」≠「みんなから愛されなければならない」

 

ノットイコールだ。

 

 

もちろん、純粋無垢な子供のようにみんなを好きになり、みんなと仲良くし、みんなから愛される、そんな人がいたらそれはそれで素敵かもしれない。

 

大人になってまでそんな邪気のない人間が実在するとはあんまり思えないけど。

 

偉人伝に出てくるような歴史上の人物とか、あれはもはやファンタジーだし。

 

 

でも、自分が「嫌い」と強く思うのも、誰かから「嫌い」と強く思われるのも、どっちにしても疲弊する世界だ。

 

血で血を洗うハードモードな世界に生きたくはない。

 

だから、人当たりはよく、人には親切にする、というのは至極真っ当なことで、ある意味大正解。

 

だけど、自分納得しないとできないんだよね、訳わからないのにみんなに愛想なんか振り撒いてられっか、っていう私みたいな面倒くさい人もきっといると思う。

 

そういう人のために哲学はある。

 

 

訳も分からず愛想を振り撒かなくてもいいし、イヤな時でも笑顔で耐えるとか、ドMじみた事もしなくていいと思う。

 

ちょっとくらい態度に出たっていいと思う。

 

ただ、気をつけるべきことは相手に失礼のない程度の言動を心掛けること。

 

あとは、たとえ納得しなくても嫌いな人を徹底的に嫌わないこと。

 

 

嫌いな人も誰かにとっては大事な人だったりする。

 

自分もそうなように、相手にも相手の事情がある。

 

 

どんなに悩んでいようが相手は相手の世界を生きているし、

あなたが悩み苦しんでいる今頃、相手は笑っているかもしれないし、

あなたの事なんて1ミリも考えてもいないかもしれない。

 

それは自分も同じくだ。

 

知らないところで誰かが自分の事で悩んでいたって、知らなければ頭にも浮かばないし、それでも人生は日々良きに計らって進んでいく。

 

 

嫌いな人を食べ物だとして考えたらなるべく食べたくないだろう。

 

だが、好きな物だけしか食べないことをしていると人間の身体は栄養が偏ってしまう。

 

嫌いな人ってのは食材と同じく、不味いけど全体的なバランスを考えたら少々必要悪みたいなものなんじゃないかと思う。

 

自分を磨いてくれる事ってどちらかというと痛みを伴う事だったりする事も多いし。

 

とはいえ、それが全てではないし人間関係は好きな人に囲まれるのが幸せだ。

 

できれば嫌いな人なんかと積極的に関わり続けたくはない。

 

特に40代を過ぎたらそういう修行の時期は過ぎていると思う。

 

なのでここで「嫌いな人と無理に付き合うことが正解」ではなくて、繰り返しになるが、なるべく「嫌い」の意識を減らしていく方法がベストなんじゃないかと。

 

捉え方としては、嫌いな食材を刻んで混ぜるとか煮込んで柔らかくしてみるとか、好きな調味料、スパイスとかハーブとか薬味的な感じとかで調理法を工夫して、少しくらい食べるか、的な考えで取り入れてみるといいんじゃないだろうか。

 

嫌いの理由があるはずなので、食感なのか硬さなのか味なのか匂いなのか見た目なのか、分解していって一番合う調理法を探す、みたいな。

 

なんとなく嫌い、みたいな感覚だとしても、細かく砕いていくと何かしらの理由があると思う。

 

嫌いな食材にも一応敬意と愛情を払いつつ、嫌いのままでいいから適当に食す、的なスタンスで。

 

そんなことをしている間に、気が付いたらそこまで嫌いでもなくなっていたりして。

 

 

まぁ、吐きそうな時に無理に食すのはやめた方がいいから、自分の腹の余裕と相談しながらになるけど

 

 

そしたらラッキー、くらいな感じで軽く考えられたらいいよね。

 

 

・・・食材の例え、かえってわかりにくいか?(笑)

 

 

 

終わり

 

 

 

 

女の美学 ~苦手な人とのコミュニケーションは高度なゲーム~

正しいプライドの持ち方

 

世の中には色んな人がいて、苦手な人も、合わない人もいる。

 

それ自体は仕方がない。無理に好きになろうとしたり、仲良くなろうとしたりしなくてもいいと思う。

 

とりあえず、挨拶や最低限の会話くらいしていればいいのだと思う。

 

それでもなぜか、大体なんとなく合わない人と話していると、モヤっとしたりイラっとしたりする事もある。

 

モヤっとしたりイラっとするのはごく自然な感情なので全く悪いことではないが、その先の対処法は一旦落ち着いて考えたい。

 

感情的に何かを言ってしまうのはよくない。

 

そういう時こそ、ゲームのように攻略法を考えて自分の中だけでこっそりと勝ち負けの基準をつくればいい。

 

ここで大事なのは

・実際に目に見える勝ち負けとは違う事

・勝敗を相手に感じさせた時点でゲームオーバー

・相手を「負かさない」こと

・自分も「負けない」こと

 

モヤっとを見過ごし飲み込んで我慢するだけもダメ。

ムカッときてつられて感情的に言い返すのもダメ。

 

「相手に花を持たせる」時があっても、上下関係は作らない。

 

つまり相手のペースに飲まれたら負け。

 

なんだか禅問答みたいでややこしいけれど、

負けない、勝たない。

つまり戦わない。

 

じゃあどうすれば?

 

ゲームだと考えたら、まずは戦う相手を知ることが第一(戦わないけど相手を分析する事は大事という意味で)

 

敵を知り己を知れば百戦危うからず。

 

自分の頭や気をフルに遣い相手の一挙手一投足に神経を張り巡らせていれば、なんとなくその人となりがわかってくる。

 

ちょっと疲れるけど、どっちみち苦手な人とのコミュニケーションというのは疲れるものだ。

 

それなら相手のペースに乗らずにうまくかわす方を選びたい。

 

コミュニケーションの最適解は自分の頭で、知恵を振り絞って考える。

誰かお手本になりそうな素敵な人の言動を見習う。

誰か尊敬できる人の姿勢を見習う。

そうやってどんどん素敵になるほど、無敵になっていくんじゃないかと思う。

 

 

最終的に目指すところはwin-win

 

高尚な道徳とは違う、もっとドライなゲームだ。

 

でも、ドライな策士になりすぎるとそれはそれで魅力がないし、計算高すぎる人は後々相手に恨まれるような勝ち方をしかねない。

目指すのはそこではない。

 

ドライでいつつ、人情を忘れないこと。

できたらユーモアを添えられれば尚よい。

 

なかなか高度なゲームである。

 

 

何をもってwin-winとするのかはその相手とその場面によるので、同じ正解が存在しない。

 

相手の性格や価値観によって接し方は変わってくるからいつも同じ攻略法が通用するとは限らない。

 

ただ、どんな相手にも通ずるルールとしては

 

「礼儀、マナーをわきまえた言動を取ること」

 

この鉄則さえ守っていれば、ワンサイドゲームになる事はそうそうない。

 

ディフェンスは鉄壁に、オフェンスは時と場合で使い分け、ほどほどにしておく。

 

間違っても礼儀やマナーを無視した言動を取らないこと。

 

礼節を欠いた人をまともに相手にしないこと。

 

そういうザコキャラと同じ土俵に立ってしまったら、自分が自分に負けることを意味する。

 

得るものも無い戦いにエネルギーを消耗し、本当に得たいものにエネルギーを使えなくなってしまうことは、いつまでも自分がザコキャラでとどまり続けるようなもの。

 

ザコなんて言い方は悪いが、きっとそれは誰しもが秘めている正しい「プライド」の持ち方だろう。

 

人を見下すのではなく、自分に負けないためのプライドだ。

 

 

そんな小難しいことを考えなくても自然体でwin-winの関係を築ける人はそれでよいけれど、

人間関係に悩みやすい人は、苦手な相手には自分の武器をアップデートしていくゲーム感覚を取り入れてみるともう少し楽になるかもよ。

 

そう考えると、人生において苦手な人というのは自分の力を鍛えてくれる相手ともいえるのかもしれない。

 

苦手なあの人も、ある人にとっては大切な人。

 

あんまりムキにならずに気楽に、適当に付き合えたらいい。

 

 

 

終わり

 

 

 

毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために ㉔

責任転嫁は成長を止める

 

毒親のスタンスは基本変わらない。

 

年齢と共に丸くなってきたりはするけれど、根本的なところはそのままだ。

 

だから喧嘩になってもいつも同じ事を繰り返し、真正面から向き合ってしまう分だけストレスが心身を蝕む。

 

結果、お互いにとって「毒」になる事の方が多いだろう。

 

これは、親に限らず他人との関係でも言えることだけれど

 

相手を変えようとするのは時間の無駄だ。

 

人は何かのきっかけで徐々に変わる事はあるにしても、誰かから言われたから変われるほど単純にできていない。

 

本人の努力で結果的に変わることはあるかもしれないが

それを期待するのは一歩間違えば相手を支配する事になり得る。

 

相手が変わらないなら自分が変わるしかない

という考え方の方がまだマシだけど、それも注意が必要だ。

 

自分が変われば相手も変わるだろうという下心のような期待は捨てた方がいい。

 

変わらない人は何をしても変わらない。

 

そして、別に変わらなくても本人にとって問題無ければそれで幸せなのだ。

 

そのままでもお互いに付き合い続けられる相性の相手であれば、一生そのままでいいのだ。

 

むしろ、下手したら変えようとしているあなたが悪者になる可能性だってある。

 

被害者が加害者になる、というやつだ。

 

 

話し合いで改善の余地が無さそうな関係性は、それ以上話し合いをすればするほど関係は悪化するし、どちらかがどこかで折り合いをつけない限り修復不可能なほどお互いを傷つけ合う事になる。

 

折り合いというのは、我慢して相手に合わせる事ではない。

もちろん、自分の言い分を押し通し言いなりにさせる事でもない。

 

お互いに聞く耳を持ち、お互いに譲歩し、お互いに改善策を見出す。

 

それが健全な関係性。

 

それが出来ない相手は身内だろうと他人だろうと不健全な関係性でしかない。

 

配慮に欠けた言動を取り、それを相手に受け入れる事を求め、受け入れられない相手を責めて更に苦しませる人間とは、潔く距離を置く覚悟が必要だ。

 

あなたが一番大切にすべきなのは自分。

 

毒気の強い人間と数時間接触するだけでもメンタルが削られて、自分の時間が奪われる。

 

時間だけならまだしも、その後もしばらく大事なことに集中する気力も削がれ、心も削られるなんて、損失が大きすぎるだろう。

 

等しく時間、お金、パワーを使っても、より幸福度が増すような相手が、付き合い続けるべき相手だ。

 

結婚式でよく使われる名言のように

喜びは倍になり、悲しみは半分になる。

 

同性、異性問わず、あなたに前向きな影響力を及ぼす相手はそんな人だ。

 

分かりやすくその逆は悪影響を及ぼす相手。

喜びは半分以下にされ、悲しみ苦しみは倍以上になる。

 

大切な自分の意思に共感もしてもらえず、神経がやられ、そんなんでは口角も運気も下がってしまう。

言い方は悪いが疫病神に取り憑かれるようなもの。

 

大体そういうネガティブな影響を及ぼす人の特徴は、責任転嫁が「過ぎる」人。

 

白黒思考で考えてしまうと辛いので、「過ぎる」人、くらいの軽い捉え方がよいのではないかと思う。

 

責任転嫁はよくないから、と何でもかんでも自己責任と捉えてしまうのもまた、自分を責め「過ぎる」人になってしまうから、そこは多少意識した方がよい。

 

そして、責任転嫁が過ぎる人は、ずっと悪い意味で変わらない。

 

精神的にずっと幼いままなのだ。

 

なぜなら、何かがあってもいつも「自分は悪くない」「自分は正しい」

「あの人が悪い」「環境が悪い」「私に原因は無い」

としか考えられないから、成長しない。

 

ずっと芯がブレない人にも見えたりするので一見強く見えるようだけど、中身は弱い。

そして浅慮。

 

だから必死で自己保身に走る。

 

自己主張の一点張りだから建設的な話し合いは出来ず、相手を威嚇したり脅したり、一転して弱者を演じたりして、自分の都合しか頭にない。

 

 

人の振り見て我が振り直せ、という諺がある。

 

自分も、そんな人にはならないようにしたい。

 

毒親育ちが親を受け入れる事は難しいけれど、いつまでも親を責め続けて生きていくのも、長い目で見るときっと自らの先々の人生を暗いものにしてしまう可能性が高い。

 

受け入れる事は難しくても、少しずつ割り切る事で一歩ずつ「自分」を取り戻し「自分」を愛せるように前に進んでいけたらそれでいい。

 

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

女の美学 ~好かれているか不安な女子へ~ 

それは誰かの幻想で

 

人付き合いにおいて、周りからの評価とか好かれるかどうかとか、って10代や20代の頃は色々不安定な中で、親先生友達含めた周りの人に認められるために頑張ってきた事が多いなと思う。

 

思春期のそれはある意味通過儀礼のようなもので。

 

心身共に成長するほど孤独ともうまく付き合えるようになってくる人はある意味健全だと思う。

 

孤独を知る人は他者を支配しないおおらかさがある。

 

好かれようとしない下心の無さは、共にいる人を自由にさせる。

 

 

人に好かれたところで特に気持ちのいいやり取りが出来るとは限らない。

(ここら辺は時と場合によるけれど)

 

好かれるためにがんばるって、とても消耗する気の遣い方。

 

利害が絡む仕事などは多少のリップサービスも仕事のうちかもしれないけど

仕事で求められるコミュニケーションてどちらかというと「好かれるため」でなくあくまで「より円滑に進めるため」に過ぎない。

 

だからマナーとモラルを守っていれば特に好かれなくても問題ないし(出世とか営業とかが絡むと好かれた方が得だけど)

 

逆にマナーやモラルすら守れない無礼者とか失礼な人は分かりやすく敬遠されがちな世界なので、わりと自分の中で線引きをした付き合いが成り立ちやすい。

 

 

で、そういうわりと明確に線引きできるマナーやモラルと違って

人の「好き、嫌い」って結構アテにならないものだ。

 

何かがきっかけで好きが嫌いになったりする事なんてザラにあるし。

その逆だってある。

それは好感度的なライトなものからディープな愛憎に至るまで、付き合いの数だけ様々なグラデーションがある。

 

その時の自分の心境によっても捉え方も変わるし。

 

そしてそれはごく自然な感情であって、本来自由でいいはずのものであり、人を縛るものではないと思う。(相手に配慮は必要だけど)

 

 

もちろん対人関係は誰だって嫌われるより好かれた方がいい。

 

気遣いは出来ないより出来た方がいい。

 

気が利く人は重宝される。

 

 

けれど

 

 

自分が喜ばないのに、好かれるために努力するというのは違う。

 

何かをした結果、好かれるならば自然な成り行きだと思うけど。

 

下心があるかないかを人って無意識に感じ取るんだろうと思う。

 

人からの評価を基準に生きてしまうとお互いに苦しいしつまらない。

 

 

そして、人の気持ち(本心)って簡単に捉えられるものではない。

 

人って案外、自分の気持ちすら曖昧なまま過ごしていたりするものだし。

 

人の腹を探っても幸せにはなれないし、探られてもいい気持ちはしない。

 

 

だから、そんな曖昧で実態の定まらない幻想に囚われるだけ、出口(答え)の無い迷路を彷徨うようなもの。

 

 

自分を出していって結果好かれるも嫌われるも、それは相手がいたら仕方のない事で。

 

相手の受け取り方や気持ち、感情までは自分にはコントロールが出来ないもの。

 

だから何を言ってもやってもいい、のではなくって

 

だからこそ、自分につまらぬ落ち度が無いように接する気遣いは大事だとも思う。

 

その結果、嫌われるならそれは上等だ。

 

そして、嫌われても陰口を叩かれても別にいいやって開き直ると、そういう面倒くさい人との距離は開いていく(かもしれない)

 

 

それで、そもそもみんなに満遍なく好かれるほど&みんなを満遍なく好きになれるほど

私ってそんなに性格よかったっけ?

そんなに気が利く女だったっけ?

そんなに「いい子」「優等生」だったっけ?

 

ってふと原点に返ってみると、全然そうじゃないわと自分が自分を冷静に戻してくれる。

 

そういう風にして自分の身の丈に合ったサイズが分かると余裕、余白も生まれて人付き合いは楽になる。

 

人間て近い存在になればなるほど、似た者同士の波長でしか一緒にいられないと思うから

より自分らしくいる事で、自ずと無理をしないで合う人が残るようになっているんだろうと思う。

 

 

学生も社会人も主婦も、一般的な価値基準に縛られて生きると、つい周りの「優等生」「理想的に見える何か」が目についたり、比べて勝手に焦ったり、落ち込んだりしてしまう事もあるけれど

 

「そもそもそれって誰かの身勝手な幻想じゃない?」

「言いたい人は勝手に言ってやがれ」と思えたら、もっと生きやすくなるのかもね。

 

 

 

終わり

 

女の美学 ~嫁と姑。夫と金~

よくできた嫁「じゃない人」のススメ

 

世の中の正月休みが終わる。

 

10年以上、夫側の親戚関係の年末年始の恒例行事に参加してきた。

 

できた嫁とは程遠かったけど、一応最低限の義務は果たしてきたと思う。

 

同居とか家業とか本家とかそういう重たいものは背負っておらず気楽な方の部類に入るので、そういう方達と同じ目線には立つことは出来ないけれども。

 

かといって「うちは全く無関係で恵まれていますの。感謝」と高みの見物で仏のように綺麗事を言えるほどお気楽な立場でもなく

 

フツウに「嫁と姑」とその周りで起きるあれこれやストレスはそれなりに経験している。

 

ほんと、いつの時代もデリケートな関係性なんだろうと。

 

家の数だけ色んなドラマがあるだろうけれども、このテーマは普遍的でありつつも、「女」にとっては時代の影響を強く受ける。

 

女性も社会に出て働くようになるほど「嫁と姑」の古めかしい呪縛から逃れられるんじゃないだろうか。

 

このテーマで何かしら経験があったり悩んだ人は共感してくれるかもしれないが

極論をいうと、決着をつけるには社会に出て精神的にも経済的にも自立する事、一択なんじゃないかと。

 

経済的自立は専業主婦の人には寄り添えない解決策だけど、それでも精神的自立は出来る。

 

何事に置いてもすぐに結果を出す事は難しいし、理想を言ったところで今置かれている立場の中で地道に努力を続けることしか出来ないけれども、平和的解決のために目指すべきはそこだと私は思う。

 

 

嫁と姑って、シンプルに二人の関係性だけでは片づけられなくて、ほんとに周りの色んな事が絡んでくるからややこしい。

 

夫婦でいる以上、相手の家族との関係は切っても切れないけれども、親戚付き合いを最もややこしくするのは「金銭問題」そして「面目、見栄」的な付き合い。

 

「お互い様、助け合い」という名に隠れた「依存、支配関係」が事をややこしくする。

 

金銭問題といっても何も相続とか借金とかそういう大げさな問題でなくてもちょっとした日常の些細な事から全て。

 

金銭に絡む利害がなければ、ドライに考えた場合、単なる相性の問題に過ぎない。

 

たまの挨拶程度なら表面上だけ建前で付き合う事に徹する事もできるし

 

それでも嫌味を言われたり意地悪されるならいっそのこと「付き合わない」という強気の選択も出来る。

 

金銭問題に関しては、私自身は子供の頃に親戚でそういう問題が勃発しているのを見て育ったからある意味そこで学ばせてもらったけれども

 

自分が大人になってみると「面目、見栄(体裁)」的なものもなかなか面倒なことが分かる。

 

自分は気にしなくても夫が気にするとか。自分の家族が気にするとか。相手の家族が気にするとか。

出しゃばってくる親戚とか。

まぁ、ほんとに人の数だけ色々ある。

謎のしきたりとか思想とか宗教問題とか、些細な違いを挙げていったらキリがない。

 

育った環境、価値観、金銭感覚、親の思想、教育方法が異なる人間同士が結婚するってそういう事だ。

 

なるたけ合う人同士の方が苦労が少ないのは当然だろう。

それでも「何も問題ない」人ってきっと少ないんじゃないだろうか。

 

 

話変わって、男は嫁と姑の細かい繊細なやり取りまでは気づかない鈍感な人が多いと思う。

 

何年も一緒にいて喧嘩も沢山して、ようやく気付いてくれる人も多いそうで。

 

最初からスムーズに取り仕切れる男がいたらその人は間違いなく、嫁姑界隈ではスーパーエリートの出木杉君。

 

だから最初から気が利かない男を責めるのは早すぎて、対話を重ねて頑張ってみる努力も必要かもしれない。

 

そんな努力をしてもダメな男なら、その時に最善を考えた決断すればいい。

 

 

つらつらと持論を述べたけど、諸々、すぐ解決する事ばかりではないし

 

人生って何があるか分からないもの。

 

お世話になったり、お世話をしたり、持ちつ持たれつで付き合える人が多いことは幸せだと思う。

 

だから、多少の事には目を瞑って我慢、忍耐も必要な時もあるんだと思うし、嫌だから付き合わない!と身勝手に投げ出す事はあまり好ましい結果にならない事もあるかもしれない。

 

だけど、無理に我慢を強いられたり、意地悪にも黙って耐えたりする時代はもうとっくに終わっている。

 

奴隷じゃないんだから。

 

100対0の関係性なんて、おかしい。

 

頑張った結果、嫁姑親戚問題で精神的に病んでしまう人もいるなんて、バカげている。

 

時間、お金、人付き合い、自分の心身の健康にとっても損失にしかならない古いしきたりは捨てる勇気も必要だ。

 

もちろん捨てた分、心の安寧や穏やかな日々など得るものがある一方で失うものがあるのも当然で、それは金銭的な援助かもしれないし、周りからの評価かもしれない。

夫との衝突だって避けられないかもしれない。

それらを引き受ける覚悟だって必要だ。

 

そのデメリットが嫌ならば天秤にかけて、自分の利があると思う方を選択する。

その人にとってのベストは世間が教えてくれるものではないと思うから。

 

姑の方がどうしたって立場は上になりがちだけれど、そこを時間をかけて自分なりの50対50の付き合い方の落としどころを見つける努力をする。

 

嫁姑が戦わずに付き合える世の中のためには、夫と金の力は必要不可欠だろうと思う。

 

その夫と金の使い方、生みだし方は、大体嫁の力にかかっている。

 

姑(舅)親戚、夫のご機嫌取りなんかせずに、言いたい事を言い、やりたい事をやり、相手のお気に召さなくたってそのまま適度な関係を続けられるほど嫁が図太くなるのが一番いい。

 

そのために精神的自立、経済的自立は大きな武器になる。

 

悪しき昭和の風習よさらば。

 

がんばろう、同世代の嫁。(っていう呼び方も私は苦手だ)

 

 

 

終わり

 

 

それってどうなん 

庶民は続くよどこまでも

 

昔話。

いくつかのセミナーを受けたりしていたご縁から、とある占術を習った。

 

ある時、先生が時間に遅れてきた事があった。

 

遅刻の理由は交通事情とかではなく、授業の前に一人の生徒と約束をしてお茶をしていたそうだ。

そして目的地まで迷子になったらしい。(先生は地方から遠征。開催場所は慣れないと分かりにくい。寄り道したからいつもと違うルートで迷ってしまったそう)

 

結局、何だかんだ授業開始は約1時間遅れでスタートした。

 

土地勘の事情なども考慮したらそれだけなら許容範囲だった。何なら笑い話にしてしまってもいいくらい。

 

だけど問題はその後の対応だ。

 

先生はその日の授業を30分ほど繰り上げて早く終わらせた。

 

理由は、その一緒にお茶をしていた生徒がその日元々用事で早退をしたのだが

「ちょうどキリのいいところだし、これ以上進めたら○○さん(早退した人)も次回分かりにくくなっちゃうだろうし」という理由だった。

 

 

結局その日の授業は先生とその生徒の遅刻&早退の事情で実質1.5時間くらいしか行われなかった。(通常は3時間)

 

自分の事情で遅れてきて、他の人の事情で切り上げて、時間通り来ている人に対しては何のフォローも無し?

 

仮に○○さんに心配するような事情があっての配慮ならば、差し支えない範囲で共有してくれたらいいし。(○○さんは普通に元気そうだし余計分からない)

 

一授業一回あたりで数万円払っているのに・・と考えてしまう私。

 

授業は他のみんなに合わせて普通に時間通り行うのが筋じゃないのか。

その人に対しては個別に補講とか補習をすべきなんじゃないの?とも思った。

 

 

一回あたりの金額は諭吉が3枚。(逸れるけど2024年からは栄一さんだそうですね)

 

趣味に近い習い事だとしても、そのための時間とお金は安易に捻出しているわけではない。

 

優雅な貴族向けの講座なら、お互いのために最初から受け入れないでくれ。一定以上の条件付にするとかして。

 

 

生徒は会社経営者とか士業とか。普通の会社員もいたけど先生と旧知の仲の人だった。みんな単身者だった。

独身貴族ってもはや死語だけど、自分だけのために時間を使える人と家庭がある人で相違があるのは仕方ない。

どっちがいい悪いでなく、物理的に。

 

 

そういう様々な人達と交流して占術を学ぶ時間は刺激もあったが、その出来事あたりから段々と微妙な感情が芽生えてきた。

 

 

受ける側にとっては趣味、学び、仕事への投資の一環、と人の数だけ様々な事情があるけれど、主催側にとっては金銭のやり取りが発生する立派な仕事じゃないですか。

時間当たり単純に換算すると高額な報酬。

 

 

権威も肩書も無い生徒だから舐められたのかもしれないが

お金についてはそれぞれ感覚が違うのは当たり前だとしても

時間は誰にも等しく貴重なもので。

 

先生の常識と感覚がいまいち理解しがたかった。

 

住む世界が違いすぎたのかもしれない。でも憧れもしなかった。

 

そんな事にヤキモキしながら時間とお金を溶かした自分。

 

きっかけはあるにせよ、見通しの甘さとかを突き詰めるとつまるところ自分の責任で

主体性が足りないとそういう事になる。

 

病んでいるその時限定で自分を救ってくれた事もあるのかもしれないし、そんな小さな事で責めたり揉めたりして終わるのも嫌で穏便に済ませたけど。

 

 

そういう依存的な関係性はお互いにとってあまりいいものではない。

 

半年くらい通ったお金は高い勉強代になったが、それ以上無理して通い続けて沼ったらきっともっと後悔や自責の念に駆られていただろう。

 

どこかで無理があるものは、長い目で見ると続かない。

 

やめる事を伝える時に先生には申し訳ない気持ちもあったが、なぜか受けもしない翌月分の授業代も請求された。

中途解約料かと思い後日書留で送ったら慌てて連絡があった。

慌てて連絡して「悪いわよ」って恐縮するくらいなら最初から言わないで。結局吹っ掛けただけなのか?余計に微妙な気持ちになった。

 

 

やめるとかネガティブな事を伝えた時の顔とか言動ってその人の本性が出やすいと思う。

 

こちらも建前上の理由を伝えたから、もしかしたら自分勝手な生徒だと思ってそういう事を言ってきたのかもしれないけど。

 

言葉と行動の差が大きいほど、言葉は色褪せていく。

 

 

ケチくさい事を言うようでも、庶民の感覚は私にとっては時間、お金、人付き合い、そして大事な心身や生活を健全に保つ秘訣のような気がするから、今後もどんなことがあってもその感覚は忘れないようにしようと思う。

 

 

ちなみに当時関わりのあった先生と数人の生徒達、誰もその占術の道では現在活動していないようです。

 

 

 

終わり