魔法の薬
傷ついた自分を癒すことを無視したまま、強く立ち上がることはできないと思う。
通常であれば幼少期からじっくりと育まれるはずの健全な自己肯定感を取り戻すのは当然時間もかかるので、一朝一夕のセミナーとかに出る「だけ」では「自己肯定感」は身に付かないだろう。
仮に身に付いたような「気」になっても、土台がグラグラしていればすぐに吹き飛ばされてしまう。
これで万事OK!という「魔法の薬」を探すのではなく、「自己を取り戻すための過程の一環」として心理学を勉強したり、あくまでも手段としてそういうセミナーや誰かの「先生」の力を借りる分にはいいだろう。
仮にそこで現れた人物が「悟っている」ように見えたとしても、それは単なる隣の芝生だから大丈夫。
決してそこでも「自分を責めない」ことだ。
そういうセミナーでまた落とし穴になりやすいのが優等生的な「正答」だ。
「ご縁を大切に」「親に感謝」という。異論を唱えにくい道徳の授業の模範解答。
私は子供の時から捻くれていたので、何一つ曇りのない模範解答を頭でっかち気味に言う人に対して「けっ」みたいな気持ちになってしまう事がある。
学生時代にそういう道徳系の説教が大好きな担任にあたった時は地獄だった。
毎日のようにホームルームの時間に延々と説法を聞かされ、生意気で反抗的だった私はいつもどうやって言う事を聞かず従わず逆らうかばかりを考えていた。
毒親云々でなく私の性格が悪いだけかもしれないが。
だがその時からすでに支配的な権力者に対して憎悪を抱えていたのだろうと思う。
子供ながらに既に心に闇があったのかもしれない。
単なる表面上だけ掬って切り取った綺麗事って、時に人に優しくないことがある。
それに反発したり反抗出来る人はそうそういないからだ。
そんなものに反発したところで答えはもう分かりきっていて、自分が魔女狩りに遭うのが明白だ。
仮になにか違和感を感じたからとてそれを唱えようものなら数の暴力で抹殺される。
だから自分の心が傷だらけの時にそういった正論を言われると、まるでそうできない自分が劣等生で悪魔でクズの塊かのような錯覚に陥ることもあるかもしれない。
みんながみんなそうではないかもしれないけれど、少なくとも私はそうだった。
すくすくと健康な心を持って育っていたら、そんな事はなかったのかもしれない。
それはそういう状態になってみないと一生分からないだろう。
お互いに、分かり合えない部分なのだと思う。
だから大人になってまで、洗脳のように綺麗事を唱える人物に出くわすと、時に自分の奥に潜んでいる毒気が疼く瞬間がある。
子供の頃からウンザリしていた苦痛が蘇る感じなのだ。
そんな時は、自分と人を聖人だと勘違いしないようにしている。
人間は天使ではないので、いつも綺麗事ばかりでは生きられない時もある。
だって、人間だもの。当たり前じゃん。
だからといって人間は悪魔でもないけど。
モラル的にNGな事をしようとも全く思わないけれど、人が心で感じることまで支配することはできない。
「前向きでポジティブでいなければいけない」とか「いい言霊ばかりでないと不幸になる」とか「バチ当たり」みたいな雰囲気で脅してくる人がいたら、その人こそがバチ当たりな罪を犯していると思っていいだろう。
人の自由や尊厳を奪って恐怖に陥れているのだから。
続く