毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために  ③

家族というコミュニティの閉鎖性

 

家族という空間に他人の入りこむ隙はあまりなく、とても閉鎖的なコミュニティだ。

 

誰一人攻撃性を持たない集団であればその閉鎖性は「家族だから安心して素で寛げる安全な空間」になるが

 

誰か一人でも攻撃性が強い人間がいるとその閉鎖性は「神経が立って不安定で息苦しい空間」になる。

 

 

他人であれば最悪「付き合わない」という選択の自由が残されているのに、家族にはその選択の自由は与えられていないかのような「家族神話」がある。

 

基本的にはずっと「家族だから」という理由で死ぬまで付き合わなければならない。

 

付き合うために誰かが自分を押し殺す関係が当たり前だった家族の場合は、ずっと我慢が強いられることになる。

 

現在のこの国において「家族と付き合いがない」という事をそこら中で「声を大にして」言えるかと言うと、そうでもない。

 

まだまだ偏見や好奇の目で見られてしまう事が多いし、未だに「親孝行しなよ」と何も知らないで余計なお節介をやいてくる人もいる。

 

そういう価値観の人からしたら「親不孝」なんてバチが当たる以外の何物でもないのだろうし、「家族不和」なんて仮に話したところで大して理解も示せないだろう。

 

「単なる喧嘩」扱いをされ「仲直りしなよ」「話せば分かるよ」「家族だから大事にしなきゃ」「親は子供を一番愛しているものだよ」とか

 

道徳の授業の模範解答のような「ド正論」を言われ、模範解答が通じない我が家族の道徳に余計にモヤるのがオチかもしれない。

 

盲腸並みの痛みを訴えて入院したのにヤブ医者に「単なる風邪です」とそっけなく風邪薬を処方され突き返されるようなものだ。

 

痛みが激しいので単なる風邪ではないと思うんですけど・・・!と心の中で悲痛な叫び。

 

それどころか酷い場合は自分ちの親孝行を例に挙げ、説得される恐れすらある。

 

分かり合えない人に話すのは、お互いに野暮な結果にしかならない。

 

 

よく分からないけどとにかく苦しい時って、誰かに聞いてもらって慰められることがある。

 

例えば若い頃に、失恋した時に友達に慰めてもらう、みたいな感覚。

 

でも失恋した時の相談みたいに明快な慰めが必ずしも返ってくるわけではないのが、家族の悩みを更に重くさせるところだ。

 

自分のうちがどれだけ異常で歪んでいて、自分がどれほど苦しんでいるのかを誰かに分かってほしいと思うのだけど

聞く相手が同じ境遇もしくは似たような境遇で苦しんでいる経験がなければ、たとえどんなに親友であろうと共感は出来ないのだ。

 

共感できない方もそこに悪気はない。

経験のないものには心から共感できないのが人間だ。

 

聴くことが上手な人であれば多少は寄り添って聞いてくれるかもしれないが。

 

でも根本的に親やきょうだいを悪く言うことは何となくマナー的にタブーな雰囲気もあるので、尚更難しい。

 

軽い愚痴とは違うのでどうしても空気も重たくなりすぎてしまうし、家族仲良しの平和に生きている人になんかついうっかり話してしまえば、嫌悪感を抱かれる恐れすらある。

 

相手を慎重に選ばないとかえって孤独や苦しみが増してしまう可能性が高いのだ。

 

今は「毒親」が一般的に広く知れ渡ってきているから昔よりはだいぶ話しやすくはなっているのかもしれないけれど。

 

 

そういう背景もあって、家族の中で起きることって第三者の干渉が入りにくい空間だから変な方向に行こうと思えばとこまででもいけてしまうんだろう。

 

家族って、異世界、別次元の無法地帯だ。

 

どんなに非常識だろうと、マナー違反だろうと。

ものすごい変なルールがあろうと。

いつの時代のいつの国ですか?ってくらい、個人の人格の尊厳が守られていなくても。

誰かが大暴走して誰かを轢きころそうとして、誰かが大怪我して瀕死の状態でいようと。(精神的な比喩)

交通整理をしてくれる人も、注意喚起してくれる人も、助けに来てくれる人も、どこにもいない。

 

三者の他人の干渉が入るのはほんとうに何か分かりやすく事が起こってからだ。

 

 

そして毒気の強い家族はだいたい誰かを悪者、サンドバックにする。

スケープゴート」だ。

 

 

 

続く