毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために  ~閑話休題~

余談だが

 

そんなボロボロの傷だらけの時に

「親へも感謝、すべてに感謝!!ありがとう♡♡♡♡」みたいな、自己啓発・宗教系スピにハマってしまうと、更に損傷は激しくなる。

 


グジュグジュ、ドロドロの傷に、無理やり小綺麗な見栄えだけのいいテーピングを貼っつけているようなもの、

もしくはタバコみたいなもので、吸っているその時はスッキリした気がするが、その後どんどん身体が重くなってきてしばらくするとまた吸いたくなる。

そして吸い続けているうちに重たさが当たり前になって肺の中はどんどん黒ずんでいく感じだ。

 


表面上のスッキリ感でカモフラージュされ、気づかないままもはや見えないところまで損傷の根が深くなっていく。

 

自分で気づかない分だけ中のドロドロは更に複雑にこじれ、余計に手が付けられない状態という始末。

 


なぜかそういう時ほどそういう穴にホイホイ吸い込まれてしまいがちなのだけど。

一体何がしたいんだ・・という迷走状態。

 

 

感謝したいとか許したいとか、愛を求めている気持ちは決して間違いでもないのだけれど。

 

そういう「感謝」とか「利他」とかを心底思えるような「タイミング」ではない時にはいかない方がいいし

 

だからといって、その「ステージ」へ行けるようになった「心の余裕」のある人達だけが「開いている(何が?)」素晴らしい人達かと言われたらそんなことないかと。

 

そこは勘違いしないでほしい。

 

「上のステージ」とか、人の精神性にすら「上下優劣」をつけてしまうのは人間の性なのかもしれないが

 

そういうマウントの取り方(選民思想)は大昔から上の者が下々の庶民を支配するためであって、現代となってはもはやビジネスのポジショントークみたいなものだから。

 

「利他」とか言いつつちゃっかり「利己」の「利益追求」で生活が成り立っている人達もいるから。

 

お互いに何を差し出すか、何を提供するか、それが社会であり経済であり、持ちつ持たれつお互い様、なんだけど。

 

目に見える「物の売買」か、目に見えない「心の売買」の違いだけであって、利益追求することは「悪」ではないから、そこに善悪もないのだけど。

 

需給が一致していて違法でなければ、それを一方的に責め裁くこともできない。

 

 

それも理解した上で、そこに属したいとか、トップの人物に共感できるとか、そういうビジネスで自分が何かをしていきたいと思うならば、そういう集団に関わっていけばいいのではないかと思う。

 

そこは人の思想と価値観の問題だから。

 


一応、断りを記しておくけれど

私は宗教そのもの、スピリチュアル、スピリチュアル系心理学の世界を否定していない。

沢山勉強する中で自分なりに感じた事は色々ある。

教えてもらった事も色々ある。

 

今でも神社仏閣は好きだし、八百万の神の存在は感じて生きている。

信仰心って本来とても尊いものだと思う。

何かを敬って、生きていること=生かされていること。自分ひとりの力だけではこの世に生まれていないし、生きていけない事を知ること。

その気持ちが自然と、周りへの感謝になるのだと思う。

 


だから、色々な宗教やスピや心理学で必ずみんなが口を揃えて言う「感謝」というのは、

そういう意味ではとっても真っ当な理屈、道理、自然の理であり、あらゆる生への尊い気持ちを表明する素晴らしいものだと思う。

 

出来ない状態で強要するから辛くなるのであって。

 


それと私はただ盲目的に「誰か」に陶酔するのがあまり好きじゃない。

 

人間が人間をそれで裁いたり、上目線で指導したり、強要したり支配するのはちょっと違うと思うし、そういう考えの強い集団には自分は合わないし合わせるつもりもない、という気持ちはこの先も一生変わらないだろう。

 

敬虔な信仰心を持って謙虚な心で生きている人達は、どこの国のどんな宗教であっても、尊いし美しい姿だ。

自分もそんな美しい謙虚さを持てる人間でありたいという気持ちもまた、この先一生変わらないだろう。

 

そしてそれはあくまでも私の考えであって、人それぞれに思うところがあることが自然だし、複雑な色んな気持ちを抱えながら生きている、それこそが人間の生なのだと思う。