意識することの大切さ
単純に「自分」が「心地よいな」と五感で感じられるものは、全て自分を優しく癒してくれる薬になっている。
だから、無理やり「傷みをなくそう」と躍起に強い即効薬を求めるだけが答えではないということも忘れないでほしい。
仮に傷みを刺激されたって「意識して」反応を最小限に抑える事はできる、と「知っている」だけでも心はいくらか軽くなる。
意識するか、しないか、はとっても大切なこと。
「無意識に」オートマチックで相手を受け入れてしまう癖もなかなか根強いから、まずはそこにも気づくことも大切だ。
では「心が健全な人」が「そういう人(毒気の強い言動を取る人)を受け入れない」とはどういう事なのだろう。
私自身、毒気の強い言動に囲まれて育ってしまったので、ずっと分からなかった。
多くの人を観察していて気づいた事なのだが、毒気の少ない平和な家族に囲まれて育った人というのは、当然のようにある程度確立されている「自己」がある。
その「自己肯定感」は幼少期からじっくりと育まれていくもののため強固な土台になっていて
意識していなくても自動的に「大切な人間を傷つけるものを避ける」センサが正常に作動している。
「大切な人間」の中には「自分」も「自分以外の人」も含む。
だから、むやみに目の前の人を傷つけるようなことはきちんと避ける言動をしているし、
他人だけではなく家族にすらも無意識で言葉を選んでいる事の方が多い。
どんな家庭に生まれた子でも、子供は生まれつき親を愛している。
愛している家族から愛されないと生きていけない。
だから嫌な言動でも「我慢して自分が(~)していれば愛してくれる」の刷り込みが強まってしまう。
(~)のところは人それぞれだ。
これは健全な家庭の子供にも多少当てはまるけれど、
「我慢する部分」が強烈だったり、正常の域を超えていたりするのが毒気の強い家族だ。
自分が傷ついていても無視して一生懸命に愛を求めてしまう。
だから嫌なものを避ける術を教わるどころか、
傷ついている自分を「当たり前」、むしろ「自分が悪い」ものだとして無理に対応する術が刷り込まれてしまう。
いわば健全な人が持っている「大切な人間を傷つけるものを避ける」センサが正常に作動していないのだ。
センサ自体はあるが壊れている。
壊れ具合が酷いほど「自分を傷つける人」も自動的に受け入れようとしてしまうのだ。
そして、家族という小さな社会から一歩出て他人と接する時にもその接し方を踏襲する。
毒気の強い言動への免疫がある上にセンサも壊れているから、他人の毒気も当然受け入れやすい。
自分が毒気を振り撒く可能性も高いし、他人の毒気を振り撒かれても受け入れてしまう可能性も高い。
そしてそのまま大人になって、家族の誰かを「嫌っていたり」「憎んでいたり」する気持ちと、受け入れてほしい気持ちを同時に抱えたまま無意識に生きていると、
ある意味恐ろしいほどにその「誰か」に酷似した癖を持つ人物と関わりやすくなる。
なぜか。
生まれた時から「無意識に」刷り込まれた「自分の癖」がそれに強く反応しているからだ。
更に根深い事に、たとえ「物理的に」毒気の強い家族から離れたとしても、
「心理的に」離れられていないと、似たような癖のある人物に「反応」して「心」も交わりやすくなるので「嫌い」なはずなのにそういう人とばかり引き合ってしまう事も多い。
自分の育った環境を否定するということは、自分の人格そのものを否定することに等しい。
だから自分も自分の親きょうだいも強烈に否定する気持ちを抱えたまま、傷だらけのボロボロの血だらけの状態で何とか生きているという悲惨な姿だ。
「自分の生そのものに感謝できない状態」の時に、家族への感謝の気持ちなんて湧いてくるわけがないだろう。
そしてその「血だらけの匂い」を敏感に嗅ぎつけて寄ってくる人間は、同じく強烈に「誰か」を否定している人間だったりする。
自分が心のどこかで毒家族に認めてもらいたい(見返してやりたい)とか、受け入れてもらいたい(辛い気持ちを分からせてやりたい)とか、躍起になればなるほどに「無意識に」その癖は発動されてしまうようだ。
性格や考え方、価値観や常識がたとえ全く違っていても、波長が似ているのでお互い引き合ってしまう。
逃げても次から次へ似たような人が現れるから、そんな人間関係に疲弊してしまう時もある。
続く