家庭環境の影響
幼少期の家庭環境で人の「スタンダード」は作られていく。
「毒気に満ちている」言動が多い家族に囲まれて育つと、毒気(刺激)の強い言動に対する免疫がついている。
むしろそれが「当たり前の基準」なので、知らないうちに人付き合いがハードモードになってしまっている事が多い。
自分を傷つけるような人を知らないうちに「無意識に許して」受け入れてしまっているのだ。
自分を傷つけるというのは、なにも酷い暴力や虐待という分かりやすいハードなものばかりではない。
一見普通に見えるような日常の中にある人間関係でも、知らないうちに自分をバカにするような人を選んでいたり、自分を攻撃する人と引き合ってしまったり、そういう事も含めて、だ。
ほんの些細な一瞬の言動だったり、ふとした時にその人の本性、本音というのは不意に出やすいから、そういう「何気ない時」の違和感だったりするのだけれど
健全な自己をしっかり持っている人の場合、まずそういう人を受け入れない、というかそもそも引き合わないのだ。
表面的に、ではなくて。
表面的に出会っていても、表面的に会話をしていても、表面の接触だけで済んでしまって、それ以上お互いの「心」まで深く交わり合う事がないのだ。
受け入れる、受け入れない、を「表面=心」で考えてしまうと解釈がおかしくなってしまうので注意だ。
受け入れる=仲良くする
受け入れない=無視をする、攻撃し返す
ということではないのだ。
受け入れない!とムキになって戦ってしまう時は、相手の言動を「まとも」に捉えて結局は受け取ってしまっている。
そこに向き合ってしまっている事になるから、結局仲良くしていることとあまり変わらない。
どちらにしてもお互いの波長が引き合ってしまっている。
ここで勘違いしてほしくない超重要なことがある。
何かしらそこに反応してしまう自分の痛みがあったりする時、それは決して悪いことではない。
生きていて何にも痛みがない人というのもそうそういないだろうから、誰しも何かを抱えていたりするものだ。
よくある自己啓発やスピ系で私が大いなる罪だと思っている事がある。
悩める人が余計にしんどくなってしまいがちなのが
「反応すること=悪」
「反応すること=自分が何かを乗り越えていない証拠」
と、そこへなぜか優劣やマウントを取り込んでいる人が多い事だ。
「だから私は痛みなんか感じていませんよ~」
「もう乗り越えましたよ」
「そこに反応するあなたに問題がある」
と涼しい顔(しかもなぜかみなドヤ顔)で、傷を抱えている人が更に自分を責めやすい環境に囲まれてしまうという。
そんなところに大金を払って行ってしまって(実体験あり)
悩みが解決するどころか、更に迷路に入り込んでしまって複雑になる、更に病むという始末。
苦しい時はどうしても目の前の藁にすがりたくなるものだし、出来ればその「痛み」をすぐに取り除く処置をしてくれる名医を見つけたい。
その気持ちは痛いほど分かるのだが、心の傷みというのは身体と違ってどんな「名医」がいたとしても、最終的にそこと向き合っていく「自分」がいなければ、誰も助ける事はできないのだ。
もちろん「独り」で向き合え、という事ではないし、「名医」だと思う人がいたらそのお力を「借りて」少しでも楽になったらいいと思う。
それでも人それぞれ「心」に抱えているものは違うのでその「痛み」が消えるまで、時間がどれくらいかかるのかは分からない。
もしかしたら、一生、痛みが完全に消え去ることはないのかもしれない。
でも、「時間薬」というように時間の経過と共に薄らいでいくこともあるし
精神科医やカウンセラーや占い師のような精神世界のお仕事をしている人だけじゃない、ごくごく普通に一般社会に生きる人達に囲まれているだけでも、自然と癒されていく事だってある。
人間に疲れたら、健全な人の趣味を少し真似てみるのもよい。
心の健康を保っている人を見ていると、だいたいみな「自分の好きなこと」をする時間を作っている。
それは意識している人もいれば、無意識の人もいるだろう。
何気ない日常の中で自分の「心地よさ」をちゃんと感じられているのだ。
たとえば自然に癒されたり、好きな音楽に癒されたり、映画でも、アクティブに身体を動かす趣味でも、美味しい食べ物でも、推し活でも。
その手段は何でもいいから「考えずに」「心地よい」とシンプルに感じられるものを沢山見つけることもお勧めだ。
続く