「子供は親を選んで生まれてくる」という説が個人的に苦手だ。
信仰の自由の問題になるので、信仰心まで否定はしないけれども。
宗教信者でスピ好きな母親もよく言っていたからだろう。
きょうだい仲が最悪になった一番の原因を作った人、言ってみれば「主犯格」なのにも関わらず
「それぞれの魂が違うから相容れないらしいわよ」
「でもそれを選んで生まれてきたのだから仕方がない」
と悪びれもなく言うから、その違和感と嫌悪感が思い出されてしまうのだろうと思う。
私は捻くれているところがあるし他人の何気ない言動に神経質なところがある。
「愛おしい子供が自分を選んできてくれた」事を勝手にこっそり喜んでいる分には害はないのだが、
それを大々的にそれがさも真実かのようにハッピーオーラ全開で言う人には何とも言えない嫌悪感を感じてしまう。
(妬む方が悪い・僻む人の心が汚いと唱える人の説についてはまた別の機会に書こう)
個人的には「ダカラナニ?」と思ってしまう。
現実を見ろ、現実を。
「魂」とか言われてもわからない。
少なくとも表れている現実は、育て方によって歪な関係が出来上がってしまった。
そして家族の機能不全によってそれぞれに抱えた闇が、ある問題を機に一気にあふれ出てきただけだ。
自分を責めても子供を責めても解決しない問題を抱え続けていたらそういうものに逃げたくなるのも、実際に心が救われるのも分かる気はするのだが。
辛さが行き所を失って何かの事件に発展してしまったり、完全に病んでしまうよりは、信仰心によって日常生活が保たれるならば、まだまだ健全なのかもしれない。
うちの家族は表向きは普通だった。
きっと親の理性や社会性で何とか表向きは保たれていたのだろうと思う。
そして、母は信仰心があったからきっと生きていられたのかもしれない。
実際に、私は家族と離れて距離を保つようになってから今まで信じていた世界が崩壊していくことにより、人付き合いや仕事にも支障が出るほど病んでしまった。
家族が壊れていくと共に自分も壊れていった。
というより、元々少し壊れていたのだろうけれど、家族の歪な均衡でカモフラージュされていたうちはそれに気づいていなかっただけなのかもしれない。
拠り所をなくすと、精神的に不安定になる。
「これさえ信じていれば万事OK」と言い聞かされて育ったものを疑い始めてから、落ち着くまでには長い時間がかかった。
今は冷静に捉える事が出来るようになったけれど、当時は母の信仰を否定しているはずなのに似たようなスピリチュアル系の何かに惹かれてしまう自分がいた。
詐欺と紙一重のような精神世界のセミナーに依存しかけた事もあった。
最初の頃はそれに救われていたりしたが、どんどん派生してく仲間達を知るうちに、わけのわからない気持ち悪さと違和感で嫌になり途中でドロップアウトした事もある。
数年間そういう事を繰り返していたりした。
自分が何をしたいのか
自分は何者なのか
のアイデンティティも失われていて、支配したい人種からしたらいいカモだっただろうと思う。
自分を見失い、自己肯定感も地に落ちていた時期は「悪縁」だったのだろうなと思うしかないご縁や不快な出来事が多く重なった。
まあ、その「悪縁」を通して気づかされた事も多々あるし、大局的に捉えたら「悪い」ご縁という定義は感覚的なものであり、人それぞれのその時の価値観によるのだろうけれど。
機能不全家族で育ち、アダルトチルドレン(AC)の傾向を持つ人は、世の中にけっこうな割合でいるのではないかと思う。
私個人の所感なのだけれど。
自分にもその傾向はあるし、出会ってきた中でも思い当たる人はまあまあいる。
根源的な話をしてしまえば「家族」に全く何の問題もないというのは「悪魔の証明」であり、誰しもが大なり小なり何かしらの傷は負っているのだろう。
だが、大いなる安心感の元に包まれてすくすくと育った人の持つ「絶対的な安心感」は、本人だけの努力で手に入れられるものではない。
生まれ育った環境は自分で選べないから、仕方ない。
魂的にはどうなのかは知る由もないけれど、少なくともこの現実社会を生き抜いていく上では、スタート時点で大きく差がついている事は事実だ。
でも、大丈夫だ。
今はずいぶんそういう概念が広まってきているし、カミングアウトしている大人たちも増えている。
ネットの発達によって昔より瞬時に色んな情報も手に入る。
こういう風に書く事を共有出来ることによって自分も救われる事があるし、誰かの力になる事も、誰かに救われる事もある。
表の社会に一歩出るとみんな、何食わぬ顔をして生きているようだけれども
実は心に傷を抱えていたり、過去に大変な時があったり、見た目だけでは分からないのが世の中だ。
生まれてきた理由なんてわからなくたって、みんななんとか生きているのだ。