毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために  ④

自分の尊厳

 

毒家族に囲まれているうちは、本来の「個」としての誇りや尊厳を取り戻すのは至難の業だ。

 

モラルが崩壊している家族に囲まれていても、自分が気づかなければずっとそのままだ。

 

何かしら息苦しさや辛さを抱えて自分の家族の毒性に気づく人というのは、家族なのに愛されていない気がするとか、受け入れてくれない、理解してもらえない、なぜだろうという悲しい気持ちを抱えている人に多いだろう。

 

だいたいが家族から悪者にされていたり、サンドバック状態にある人だったりする。

 

家族の調和を保つために「スケープゴート」が要る家族なんて、尊厳を奪って犠牲にしている時点ですでに調和なんてものは存在せず、絆なんてとっくに崩壊しているのだ。

 

「弱くて醜い異質な生贄」がいなくなったら困る人は、自分の弱さや醜さと向き合えていない。

 

そんな「毒」で作られた自分の役割だけが本来の自分だと思ってしまったら不幸だ。

 

社会に出てもその癖を引きずってしまったら、うまくいくはずの対人関係もうまくいかず、自分をバカにするような人に傷つけられても平気でそれを受け入れてしまう人間になってしまう。

 

そんな歪な役割を一生背負って生きていく必要はないのだ。

 

 

この世に生まれたことに感謝もできないまま、生まれたことを嘆いてしにたくはない。

 

 

自分が自分で生まれてよかった、と「生」そのものの本来の誇りを取り戻すためには

家族の中で生きながらえるために無理に身につけてしまった「我慢を伴う自分の役割」から卒業しなければならない。

 

そのためにはまずは毒から身を守り、心がなるべく平穏で安全でいられる場所を作ることが必要だ。

 

物理的にも心理的にも離れてから、ジワジワと時間をかけて誇りを取り戻していくことになる。

 

 

毒家族に受け入れてもらうための「自分」ではなくて、

社会とうまく付き合えるための「自分」を作り上げていくことで、自分を傷つけるような世界から遠ざかることができるようになってくる。

 

 

その「自分を傷つけるもの」に対する冷静なセンサをよく狂わせるのが「寂しい」「分かってほしい」という気持ちだから、

その「寂しさ」と「分かってほしい気持ち」を、自分でどう癒していくかが課題だ。

 


要は「愛されたい、愛したい」気持ち、ということになるのだけど。

 

 

人の育ち方や考え方に対して、これが「普通」という定義はできないけれど、

少なくとも「人を傷つける言動」を選んでいないかどうか、とか

誰かをハブったり悪者にしたりしていないかどうか、とか

それくらいのことは何となく付き合っているうちに分かる。

 

あとは、ふとした時の言動。

そこに違和感を感じたら、それ以上深入りするのは辞めた方がいい。

 

出会う人とのご縁は一期一会、大切にしたいけれど「誰もかれも受け入れること」が「ご縁をたいせつにすること」ではないということは、きちんと意識しておいた方がいい。

 

嫌な人を避けること=人を無視したりイジメたりすることではないから、相手への配慮とマナーだけ忘れずに、安心して堂々と距離を取ればいい。

 

だから、「変だな」「嫌だな」と感じる人がいたら、その人を受け入れないように気をつけることは、大切な自分を守るために、とっても重要なことだ。

 

「変だな」とか「嫌だな」というのはあくまでも「自分の感覚」

正しいか正しくないか、ではない。

頭で考えないようにしたい。

 

 

「言葉」って大切なもので、時に人を救ったり笑かしたり灯をともしたりするものにもなるけれど

時に人を傷つけたり惑わせたりするものにもなる。

 

大体「変だな、嫌だな」という「感覚」を抑えつけてしまうのは「相手の言葉」を「頭」で考えてしまう時だ。

 

思考が働きすぎると、大切な感覚が鈍っていく事もある。

 

思考が悪いわけではないけれど、正解を探してしまう人ほど言葉の罠にハマらないように気をつけたい。

 

言葉がこの世のすべてではないから。

 

 

 

 

続く