言葉の魔力と演技の力
人の「言葉」には人を元気に明るくさせる力もあれば人をネガティブにさせる力もある。
本気で愛を伝えることも出来れば、憎しみを孕んだ本気の愛で人を傷つけることもできる。
言葉というのは本音を隠していても「ついうっかり」本音が出てしまう事もあれば、本音を話したくてもつい「ウソ」をついてしまう事もある。
何が言いたいかというと、それほどに言葉には沢山のニュアンスや表情があり、それほどに本心は分からないものであり、信用できる事もあればできない事もある。
それくらい「魔力」があるということだ。
コミュニケーションの基本は「言語」だけれど「非言語」のコミュニケーションも重要なのでそこも軽視しない方がいい。
自分の「感覚」「直感」が絶対に正しいとも限らないのだけど、それ以上に「言葉」というのは人を惑わす力も狂わす力もある。
「感覚」が鈍っている時ほど「言葉」を真に受けてしまったり振り回されやすかったりする。
毒気の強い人間に囲まれていた人ほど
相手を受け入れたい、理解したい、理解してほしい、という「愛を求める気持ち」が強いし刺激にも慣れているから、
ついつい目の前の人の「刺激が強い言葉」も含めて一生懸命受け止めようとしてしまう。
一生懸命受け止めようと相手の「スタンダード」に飲み込まれてしまうほどに、自分の冷静なセンサは鈍りやすい。
相手への気持ちや思いやりも失ってはよくないけれど、常に観るのは「自分の気持ち」「自分の心」だ。
誰でも愛せる自信のある人はその広い愛で多くの人を愛せばよいと思うけれど、自分が傷ついているのにそれを無視した行動を「愛」と呼ぶのは気色悪い。
人を愛するにはまずは自分を愛せることが最初だ。
人を許せるにはまずは自分を許せることが先だ。
どんな感情にだって○をつけてあげていいから、どんな感情の自分でも自分を愛してあげることが先だ。
「哀しみ」「怒り」「嫌な感情」を抑えている状態で、人を愛して許せるわけがない。
感謝ができるわけもない。
何歳になった大人だろうと「嫌い」「気持ち悪い」「変」「何この人」って、子供みたいに堂々と思う権利があるのだ。
むしろ、そう思えた「黒い心を持つ自分」に◎をつけてあげるくらいでちょうどいい。
何ならもっと言葉が悪いが「きっしょ」「うっざ」「バカにすんなよ」「なんだこのクソ野郎は」「どっか行けよ」くらいに思えればもっと◎だ。
ただしあくまでも「心の中だけ」で。
そこだけは要注意だけれど。
それを面と向かって「言葉」には出さないことが自分と自分の周りの世界の平和を守る。
そう思った=相手を攻撃していい、と許可することではないし、それとこれとは全く別の話だから。
「言葉」に出さないこと=「我慢」「敗北」ではない。
仮に挑発や侮辱するようなことを言われたら「フルシカトの刑に処す」「お互いのために戦ってあげない」くらいに思っていればいい。
戦ってしまうと、ボロボロの世界に引きずりこまれて相手の苦しみまでも請け負って、自分の苦しみは消えるどころか増して、エンドレスに付き合い続けることになってしまう。
行きつく先はお互いの苦しみしかない、どちらにとっても負け戦だ。
思うことは悪ではない。
もちろん感じることはもっと悪ではない。
何なら心が健康な人達は、言動にこそ出さないがそういう「悪い自分」「黒い自分」もちゃんとあって、それをあるがまま自然に認めて生きていたりする。
心も行動も平和で健全な状態の人たちは、そう思う≠相手を攻撃、というモラルやルールも備わっているから、そう思ったところで自動的に戦闘態勢にスイッチが入るわけでもないのだ。
表面上なるべく波風立てない術を心得ている。
それが自然に出来なくてもいいから、それを「真似る」のだ。
毒親育ちが社会で生きていくにはある程度の「仮面」「演技力」を身に付けることもサバイバルスキルとして必要だ。
演技は別に心なんか伴っていなくて全然いい。
プロの役者でないしそれで人を感動させる必要もない、
むしろ人の感情を動かさないでいい。
毒気の強い人というのは相手の「感情の動き」「怒り」にとっても敏感だから。
そこの「反応」があればあるほど、しつこくエサに喰らいついてくるから、
相手の餌食にならないためにも、無感動の「大根役者」の演技力で十分だ。
真似て繰り返すうちに段々それが自分の中にインストールされてくる。
他人に対してはそれが出来ても身内に対して、が一番難しいのだが。
続く