人間を、舐めんなよ? ~哲学のススメ~

カテゴライズの功罪

 

人間に対するカテゴライズって、面白いし興味が尽きない分野だ。

社会学」「哲学」は「人間」を探求する学問だ(たぶん)。

 

人間探求の世界は「学問」として成り立っているものもあれば「趣味嗜好品」のように大衆受けのするものまで幅広い。

 

易学、西洋占星術とか、風水とか、血液型とか、数秘とか、その他諸々統計学的な類のものから、地域性、国民性、職業、家族、など属性による傾向とか。

 

雑にまとめてしまえば、ざっくりと「占い」と巷で言われるような分野も親しい。

 

人間を「属性」に当てはめると、悩むことは少なくなるだろう。

 

それを現代の人は「思考停止」とも呼ぶが。

 

だが、考えなくてもいいような事を延々と考えすぎると病みやすい。

 

考えたからといって答えが出ることばかりではないので、どこかでしっかり「停止」してあげることも時には必要だ。

 

カテゴライズすることによって安心したり、迷った時の指針になったり、考えすぎて悩みの沼に陥ることを防いでくれたりするから、世の中には沢山の占いがあるのだろう。

 

「相性が悪いから」「こういう特性だから」仕方ない、と割り切ることができたり。

 

 

占いって、友人たちと盛り上がるネタになったりして面白いなとは思うけれど

 

それに答えを求めるあり方は昔から好きになれない。

 

そういう「傾向」もあるんだろうな程度で、関係する全ての人間が微笑む事のできる余白がある距離感がちょうどいい気がする。

 

何かの大事な決断とか人間関係のもつれなどに対して勝手に人を分析するツールにされると、かえって人間関係が狭い世界に閉鎖されて残念な方に完結してしまう気がする。

 

 

無知の知

 

この世の不思議を解明していくスピリチュアル的な世界は神秘的で魅力的だ。

 

古代から現代まであらゆる占いがあり人がそこに惹かれていくという事は、それだけ人間の人智を集結しても未だずっと解明しきれないくらい、この世界は深淵なものに満ち溢れているという事なのだろう。

 

逆に考えたら、人智が集結しても未だ解明しきれていないこの世の神秘を、さも分かったかのように生きることは「傲慢」以外の何物でもない気がしてくる。

 

 

多面体である人の一部だけを見て、まるで知ったかのように決めつけてしまう。

 

ついつい、沢山勉強したり苦労して得た知恵が増えていったり、年齢や経験を重ねていくとこの罠に陥ってしまいがちなのだけど。

 

そういう時に戒めとなる言葉が「無知の知」。

 

人って、きっと永遠に「誰か」のことをすべて分かることなんて無いのかもしれない。

 

どんなに親しい人でも、家族でも。

 

そういう風に思っているくらいの人の方が、かえってコミュニケーションが取りやすいなと感じる。

 

逆にストレスを感じやすいコミュニケーションって、分かったような口調とか、決めつけたような言いっぷりだったりする。

 

私は問い続けることの好きなマニアだからかもしれないが。

 

決めつけられることで「安心」して自ら檻に閉じこもってしまう人もいるのだろう。

 

確かに、分からないことを考えなければならない事というのは全く興味が無い分野だとストレスにもなる。

 

けれどそれが目先の楽を求める思考停止から来ている依存だとしたら要注意だ。

 

 

「我思う、故に我あり」自由であり続けるために

 

占いは面白いけどそんなに好きじゃないのはきっと、依存するのがヤバイとかそういう次元の話よりもう少し繊細な「気持ち」の部分で違和感を覚えたことが多いからなのかもしれない。

 

「分析するのはいいけど、答えを決めつけないでくれるかな?」

 

みたいな。

 

もっと口が悪くなると「人間を舐めんなよ」的な?

 

統計や数値から割り出すのはいいが「気持ちが置き去りじゃねぇか」みたいな?

 

頭だけ持っていかれてしまうような。

 

 

一応断っておくけれど、占いやカテゴライズを否定しているわけではないのです。

 

 

ただ、経験した事で言うと

分析して決めつけられた時にいい気分になった事はあまり無い。

 

たぶん、相手の言葉に乗っかってくる何かを感じ取るんだろうな。

 

 

哲学って難解なイメージがあるけれど、自分の頭で考え続けること、疑問を持ち続けること、問い続けることは身近なことも含め全て広義に「哲学」なのだと思う。

 

 

私が話していて面白いなと感じている時って、振り返ってみればお互いに「答えのない問い」について延々と盛り上がっている時だったりする。

 

真面目な話でも、超絶しょーもない与太話でも。

 

仮に答えが出たとしても、真面目な話だったら両者対等に考えて落としどころを見つけた喜び的な感じだったり、しょーもない話なら「オチ」的な笑いだったりする。

 

そこの空間には「支配、被支配」もなければ「上下優劣」も何も無い心地よさを、無意識に感じているのかもしれない。

 

 

「哲学」って常に問い続ける面倒臭さのようなものを感じさせてしまいがちだが、「答えを決めつけないこと」は人と人がいつまでも「自由」であり続けるために必要なのものなんだろう。

 

問い続けるのはいつだって自分の気持ちや頭に対してであって、人に質問責めをするのはアカンけど。

 

 

 

 

終わり