★アクの強さは身を守る★
「よりよくあろうとする道徳」の正解を求められ与えられてきたわたしたちは、「善」を目指すべく生きている。
それはひとが幸せに気持ちよく暮らすためには絶対的に正しいことでもある。
だから「正しいひとであろう」と必死で努力して今日も傷ついたり傷つけたりしながら生きている。
幼い頃に読んだ絵本のストーリーでも主人公は必ず善き心を持っていた。
学校で教わった道徳も、だいたいは皆に胸を張れるような立派な言葉が正答だった。
物語に登場するヒーローはいつだって美しい心持ちで人を導く正義の味方。
負けてほしい「悪」側に立つ者はいつだって醜い悪の権化。
「悪」は悲しみ、怒り、やるせなさ、恨みなど負の感情に己を支配されている。
話題のアノ漫画だって「鬼」の中にはそんな悲哀を伴った醜さが描かれている。
争いが起きる時には大抵そこにやっつけるべき「悪者」がいる。
そういう「善」と「悪」の戦いは犯罪や戦争など大げさな話ではなく、その辺の日常にたくさん転がっている。
にんげんの世界は、なかなか複雑だ。
毎日がドラマだ。
人生にはいろんな事がある。
喜びに包まれる時も、怒りに震える時も、哀しみにくれる時も、楽しさを感じる時も。
病める時も、健やかなる時も。
愛を信じられる時も、愛を信じられない時も。
ひとのこころは忙しい。
時に美しくも、時に醜くも、なる。
小学生の時に、学校の帰り道で出会った紙芝居に恐怖で泣いたことがある。
端的にいうと「悪いことをしたひとは地獄に落ちて、大好きな皆と離れ離れになってしまう」というようなストーリーたっだ。
善だけで生きることのジャッジは誰になされるのだろうか。
「よりよくあろうとする」「正しさ」は時としてお互いに「善人」であるはずのにんげん同士の争いにもなる。
誰かにとっての「正解」は誰かにとっては「嫌なこと」だったりもするから。
おとなの世界は、学校で教わったような「誰にとっても正答」が見つからないこともある。
じぶんとひとの「正しさ」がぶつかった時には、どちらの立場にもそこに至った気持ち、言い分があり、安易に善悪の判断が出来ないことも多々。
そこに善悪の色をつける、ひと。
色づけは育った環境や置かれている立場や、その時々の心境にもよるけれど
正しさファーストではなく、気持ちファーストでかんがえると
もっと本能的なところの、アタマで考える理屈ではなく「こころ」「気持ち」の奥底にある「美醜」の感覚に左右されるのではないか。
世の為ひとの為に善き言動をする「美しさ」
ひとの持つ弱さ、汚らしさ、いやらしさ、「醜さ」
生まれながらにして残酷な人間のことはわからないけれど、大多数の人間は善良な心を持ち合わせているものだ。
じぶんなりの「善かれと思って」を胸に生きている。
だから時にそうじゃない(ように見える)存在を疎ましく思う。
排除したくなる。共存が難しい相性なんかだと尚更だ。
だからこそ、ひとは時に「善かれと思って」戦いを犯す。
それは「善」であることと同時に「悪」にもなる。
じぶんこそが「正しい」と信じ込むことは怖い。
「善かれと思って」正しさの刃を他人に向けて振りかざすことで、じぶんの「気持ち」、ひとの「気持ち」をころしている。
じぶんの中にある「悲しい気持ち」「嫌な気持ち」傷みはどこへいく?
戦うべき相手は誰なのだ?
じぶんの「正しさ」は、誰を守るもの?
刃は誰に向けるもの?
その先に「平和」「共存」「理解」がある戦いなのか。
その先に誰かの「絶対的正しさ」への服従を望む戦いなのか。
ヒトがヒトである理由。喜怒哀楽があるのはなんでだろう。
美しくも、醜いのはなんでだろう。
到底人智の及ばない世界だ。
だから、
じぶんの中に潜む「悪」を無理に排除しようとするよりも
うまく付き合っていくことを考えた方が楽に生きられる。
開き直ってじぶんの全てが「悪」そのものだと思い込んだり
悪の心に支配されて染まってしまうことは悲しみ、憎しみの色でひとを染めることにもなってしまうけれど。
悪は時々顔を出す。傷みを感じるじぶんを守る為に。
世の中には善人の面をかぶって攻撃をしかけてくるヒトなんかもいたりするから、身を守るため防御は必要だ。
意図せず誰かに挑まれたら、チラッと「アク」を出しひそかに善を守るのだ。
己を守る為の必要悪。
強い矛ではなく強い盾として。
それはじぶんの聖域を侵略させない為の聖戦なのだ。
アクの強さは人間臭さでもある。
ひとは、善にも悪にもなりうる。
強くて弱い、弱くて強い、そして美しく醜くもある生き物だ。