毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために  ㉓

ちゃんと怒る・ちゃんと嫌う

 

久しぶりの更新になってしまいました。

読んでくださる方ありがとう。

 

毒親育ちと一口にいっても様々である事を念頭に置いた上で私の経験から思うことを書いています。

 

専門家ではないのでいち参考程度に考えてもらえるといいなと思っています。

 

 

生まれ育った家族の影響を受けて形成されてしまった自分の「性格の癖」「傾向」みたいなものについて改めて思うこと。

 

うちは母及びきょうだいの自己主張がかなり激しい方で、感情の表し方も強かった。

 

その反動か、持って生まれた性格か、私は小さい頃から落ち着いている子供だった。

 

無意識に、自分の居場所を確保するため、自分のエネルギーを必要以上に消耗しないために感情を抑えてきた事も沢山あるのだと思う。

 

泣いて叫んでも聞き入れられない事が多かったし、自己主張をしても倍返しで抑えつけられる

 

それなら「諦める」「冷める」事で精神のバランスを保っていたのだろう。

 

自己主張が激しく、怒りの感情が先だって落ち着いて話が出来ない母やきょうだいをどこかで軽蔑していたし、他人でもそういう感情的な人が苦手だった。

 

我の強さで人を困らせたら「負け」だとずっと思っていた。

 

空気を読まずに自由に自己主張するあの人たちは誰かを困らせていたように見えていた。

 

だからわたしは一歩引いて全体を俯瞰して客観的に物事を捉える。

無意識にバランスを取ろうとしてしまうバランサー。

 

これはもちろんある一方から見れば私の長所でもある。

 

そのお陰様でいい事だってあったはずだし、今でもそういう癖は「協調性」がヨシとされる場面ではそれなりに立派に役立っていることもある。

 

ただ、「怒り」「自己主張」「感情」を消してきたことの弊害に目を向けてみると、なかなか強烈な「闇」もあった。

 

 

気付くきっかけとなったのは家族への「怒り」とその根っこにある自分の「強い感情」だった。

 

強い怒りをぶつけること=悪いことだし「負け」。

でも、そんな事言っていられないくらいの心境だった。

 

その場の空気なんて読まずに、ただただ怒りをぶつけた。

 

言ってはいけない事とか、相手がどう思うのかとか、そんな事よりも「自分の気持ち」

「自分の感情」が優先だった。

 

きっとそれはわたしが強く嫌っていた、家族の姿そのもの。

いや、もしかしたら、キレたら誰も手が付けられないほどになってしまうわたしは家族の中で実は、一番厄介な存在なのかもしれない。

 

厄介というと語弊があるかもしれないが、結局同じくらい、もしかしたらそれ以上に面倒な人間だという。

 

そして血は争えないと実感した。

 

色んな意味で強烈な母、きょうだいだが、自分も相当に強烈なんだ。

 

ただその表現、方向、タイミングがきっと違うだけで。

 

 

そして、それでいいのだと今は思う。

 

何なら、そんな強烈な母たちに負けずに逞しく生きていくには、それ以上に強烈じゃないとダメなんじゃないかとすら思う。

 

メソメソしていつまでも被害者意識で生きるなんて有限の人生が勿体ない。

 

「怒ったり感情的に誰かを責めたりする嫌な自分」がいていいし、嫌いな人もいていいんだと思う。

 

投影とか深層心理とかそういう分析的なことは一旦置いておいて。

 

怒りをちゃんと表すことも時には大切だ。

相手がどう思うか、思いやりも大事とはいえ。

人のために我慢ばかりして自分を抑えるというのは一見大人なようでいて違う。

 

40歳過ぎてなんとなく分かってきたことだ。

 

ほんとの大人って(っていうかわたしが思う素敵な大人は)ちゃんと自己主張ができて、ちゃんと怒るべきところで怒ることが出来て、ちゃんと人並みに好き嫌いもあって、日々の色々な人間劇場の中をひたむきに、精一杯生きている人間臭いひとだ。

 

一番大事なのは自分の気持ち。

 

幼少期に置き忘れてきたもの、我慢して抑えつけてきた、原始的な感覚に改めて立ち返る。

 

怒りの根っこは寂しさだったり悲しさだったり悔しさだったり色々だ。

 

その感情は、幾つになってもきっと幼い子供が泣き叫んでいる気持ちとそんなに変わらない。

 

もういい大人だから、できるだけその表現の仕方はスマートでありたいし、他人に怒りに任せて何かを言うことはあんまりいいことはないだろうけど。

 

自己中がいい、とかそういう単純な事でもないし、人を尊重できる余裕は常に持っていたい。

 

けど、それだけではダメだという当たり前のことも最近しみじみ感じる。

 

これだけ沢山の人間がいるんだから、相性だってあって当然で全ての人に好かれるなんて無理な話でおこがましいとすら思う。

 

色んな人がいていい。色んな好き、嫌いがあっていい。

 

アカの他人ならそう思えたとしても「家族」にそう思えるのはもしかしたら一番難しいのかもしれない。

 

家族の中にも、色んな人がいていい。好き、嫌いがあっていい。合う、合わない、があって当たり前。

 

「血は争えない」とはいえ、「血が繋がっているから」同質であるべき、仲良くすべき、とも限らない。

 

ドライな考え方で信じられない人もいるだろうけれど、きっとそれもこの世にある無数の事実のうちの一つなんじゃないかと思う。

 

 

嫌だなと感じる人はちゃんと嫌う事も時には必要だ。(最低限のマナーとモラルさえ守っていれば)

 

嫌う事に同調を求めてしまったり、同調圧力で無視したり否定したり袋叩きにするのは「イジメ」になってしまうし、そういうダサイことはしたくないが。

 

人間の誇り、尊厳、ってそういうネガティブな部分もひっくるめて自由を認めることがとっても大事なんじゃないかと思う。

 

 

 

 

続く

 

 

 

女の美学 ~悩める健気な女子たちへ~

あえてこのジェンダーレスといわれる時代に「女」というものについて考えてみる。

 

女っぽさを前面に出す人は同性からあまり好まれない。

だから「男前」とか「男っぽい」とか「サッパリ」している女子は好かれやすい。

好かれやすいというか、敵視されにくいというか。

 

女子の世界で生きていくためには「女」を「封印」する方が負傷する危険は少ないのだ。

 

この構造を理解した上で色々な人間と接していると、女でありながら「男っぽいんだぜ、自分」と自称する人の中にはなかなか面倒くさいヤツが混ざっていたりする。

自称「中身オッサンだから」女子がなかなかの「拗らせかまってちゃん」だったりする。

 

世の健気な女子たちの「女らしさ=NG」という群集心理の闇を突いて、巧妙に「男っぽい」マウントを仕掛けていたりする。

 

たまに、似た者同士で「いやいや私の方が男っぽいし」みたいなマウント合戦が繰り広げられていたりする。

 

傍から見ていると「いやいやあんたら同じ女子やで」と心の中でツッコミを入れたくなる。

 

で、「女であること・女でいること」を強く否定している女子は、

関わると女子そのものである事実をかえって実感させられる事が多い。

 

わりと陰湿に攻撃的な何かを秘めていたりもする。

そんな攻撃的な自分をヨシとしてあげたいことが=男っぽい、に変換されてしまっている。

「男=戦う」は事実だと思うけれど、大事なものを守るために戦う、何かを手に入れるために戦うことは生物の本能だろう。

 

だが、攻撃女子のそれには哀しき「逃げ」みたいなものを感じるのだ。

何から逃げているのだろうか。

 

きっと自分の見たくない闇。シャドウ。

でも向き合えないからシャドウを誰かに投影して攻撃したがる。

 

キツイ言い方になってしまう事を承知で言わせてもらうと、逃げている時点でだいぶ女々しい。

 

隠しているつもりでも女のイヤ~な部分が丸出しだ。

誰かを悪者にしたり誰かの足を引っ張ったりして、ほくそ笑んでいたりする。おー怖っ・・。

 

そういう人は相手を同じ土俵に引きずり降ろそうとする。

 

だが間違ってもその術中にはまってはいけない。

 

同じ土俵で「女っぽさ」を否定してしまうのはまんまと罠にハマっている証拠。

 

世の健気な女子たちは決して「女としての誇り」を失ってはいけない。

 

そういう時は「女として」思いっきり心の中で見下してさしあげよう。

 

見下すなんて・・・性格悪い?

それでいいのだ、性格が悪かろうと、何だろうと。

性格悪い自分をちゃんと認めて心の中で何を思おうと自由。

他人を攻撃しているヤツの方が余程性格が悪い。

 

ただ、気をつけることは「心の中で」だけ。

心と態度が裏腹なのは精神を消耗するし疲れるけど、多少の演技は社会を渡っていく上で必要なスキルだ。

一時だけの我慢。我慢しながら付き合い続けることはおススメしないけど。

一方的なこちらの我慢が続くような人とはそっと距離を置く。

 

 

それで、「女の嫌なところ」ってのは、確かに女である以上、誰でもきっとある。

それはきっと、自分の中にもあの人の中にも、多少はあるものだろう。

持って生まれた気質とか周りとの関係性とかによって多少の違いはあるにしても。

 

でもそれと等しく、女のいいところってのもきっと誰の中にも存在している。

 

不安定さも気分屋なのも感情的なのも好き嫌いがあるのも全部ひっくるめて、女ってそんなものなんじゃないかと思う。

 

社会の中で色々窮屈に歪められてしまっているから、女として生きる上でそういうものを否定しなければいけないストレスは全女子たちに降りかかっている気がする。

 

そして。

そんなことも受け入れて、他人に対して影でそっと配慮ができる一流ホステスみたいな女らしさを秘めている人って、実はとても「男前」だったりもする。

 

媚びる安っぽい女らしさではなくって、もっと高貴な香りのする根っからの女らしさといおうか。

 

それは、誰かに分かりやすく見せるような気の遣い方ではないし「私って配慮のできる女」みたいな素振りはあんまり見せないけれども。

 

ちょっと古風なあり方に見えるけど、そんな人は年齢に関係なく美しいしカッコいい。

 

男性性と女性性のバランスがとれていて、変に気負っているような攻撃性が無いというか、自然体なのかもしれない。

 

女の繊細さや不安定さを、攻撃性ではなく、思いやりに変えられる人。

 

結局のところ、男前だろうと女々しかろうと、女はどこまでいってもきっと女なのだ。

 

女である自分から逃れるよりも、受け入れてうまく使った方がきっと人生は楽しいはずだ。

 

だから、誰かと戦ってしまうことを「男っぽい」と言い訳や逃げにしないでおくれよ、と思う。

 

それは決してカッコいい男らしさではなく、カッコ悪い女だ。

 

自分の中の「女」を認める美学のある女がカッコいい女だなと思う。

 

女の強さってそういうことなのかもしれない。

 

そしてそんな女は社会でしたたかに生きている気がするよ。

 

 

 

 

終わり

 

 

 

 

 

 

毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために  ㉒

自分を大切にするとは? ~肌荒れと人生の相関関係~

 

「自分を愛する、自分を大切にする」という抽象的な表現をもう少し具体的に考えてみる。

 

「~する」は英語では「do」である。日本語でも英語でも「動」の表現だ。

そこから連想するのは「何かをしなければその状態にならない」ことだ。

 

実際にはそういう動的なアクションももちろんあるけれど、その前段階として重要なのが「静」の方なのだと思う。

 

「静」というのは「動」の対極である。

 

具体的には「~しない」ことだ。

 

苦しい時ほど、焦っている時ほど、人はついつい何かをつかみ取ろうと必死で行動してしまう。

 

「溺れる者は藁をもつかむ」とはよくいったもので。

 

 

若い頃に肌荒れが突然酷くなった時期があった。

 

後から思えばきっとストレスが一番の原因だったのだと思うけれど、その当時は表面の現象だけを見て治すことに必死だった。

 

化粧品やら皮膚科やらありとあらゆる方法を試し情報を色々と取り入れ、毎日そこを治すことばかりに囚われていて、それが更なるストレスを産んでいた。

 

精神も経済もそこに注ぎ込まれている割には何をやっても治らず、気にすればするほどストレスで悪化するのかもしれないと薄々思い始めていた。

 

対処療法ではダメかもしれないと、食事や睡眠やストレスなどの根本的治癒の方に目を向け始め、そこで「精神的ストレス」は外見にも表れることを身を持って知った。

 

どうせ何をやっても現象がすぐ消えるわけではないのなら、いっそのこと「気にしない」ように生活をしていたら、不思議なものであんなに酷かった肌荒れが自然とゆっくり治っていった。

 

 

「ホクロは数えると増える」とよく言われている。

 

迷信なのか何なのかは知らんし科学的根拠は何もないが、その言葉には肌荒れも人生にも似たようなところがあるような気がする。

 

 

「~しない」というのは一見消極的なスタンスに聞こえるけれど、実はそれこそが肝心なんじゃないかと思う。

 

アクションらしいアクションではない事、目に見えて分かりやすい行動ではないものの大切さ。

 

身体がSOSを出している時点で既に何かしらのストレスは限界に来ていたという事なのだろうから、そこから更にアクションを起こして戦う姿勢になってしまったら「静」になれる暇がない。

 

必死でSOSを出した心身を更にしばくなんて。なんてスパルタ、ブラック企業のようなハラスメントじゃないか。そんな持ち主(自分)にあたった身体は哀れだ。

 

 

日中に活動できるのは夜にぐっすり眠れているからだ。

 

「静」の時間があるから「動」の時間に大いに活発な動きが出来る。

 

身体と同じく、心にも休息は必須だ。

 

疲れすぎてしまった心を癒すには、「何もしない」時間が必要だ。

 

寝られる時間は何も「考えていない」

 

一人でゆっくり過ごせる時間は誰かに「気を遣っていない」

 

気の合う誰かと大笑いしている時間は気の合わない誰かによって「神経を消耗させられていない」

 

好きなことに集中している時間は「嫌いなことをしていない」

 

 

逆に、何かに囚われ何かにずっとフォーカスしてしまっている時は、肌荒れやホクロのようにその悩み事が消えることがないのではないかと思う。

 

人付き合いにしても、自分の大嫌いな誰かの癖に支配されて囚われてしまっている時というのはなぜか肌荒れやホクロのように沼にハマっていきやすい気がする。

 

ホクロと人間関係をこじつけるのは大げさかもしれないけれど。

 

 

だから、「~する」=「~しなきゃ」となってしまうとちょっと泥沼に陥りやすいんじゃないかと思っている。

 

「自分を愛する」「自分を大切にする」ことが何なのかが具体的によくわからなくて、活力も気力も失われていて前向きに行動できない状態の時には

 

積極的に何かを「する」ことではなく、消極的に何かを「しない」ことを考えてみた方が、回復までの道のりが遠回りのように見えて案外と近道なのかもしれない。

 

消極的でネガティブだとしてもいいから「~しない」と決めて自分を労わってあげる。

ポジティブかネガティブか、なんて考えなくていいし、言い方、捉え方一つだったりする。

 

空っぽになってしまうような気がしても、世の中から置いていかれるような気がしても。

生きている限り空っぽにはならないし自分次第でリカバリーはできる。

 

いろんな回り道があったって、失敗だと思ったって、いつだって常に今が最善で天は見守っていてくれるはずだから大丈夫だ。

 

気の済むまで「静」に浸っていたら、自分らしい「do」のエネルギーは不思議と自然と湧いてくるものだから。

 

 

 

 

続く

 

毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために  ㉑

自分を大切に育んでいく

 

もしも、幼少期からの劣等感や自己否定感が強くて自分を大切に思えないのなら、時間をたっぷりかけて育んであげるといい。

 

「育つ」のは子供だけではない。

 

それをしてあげられるのは自分だ。

 

人間である以上、誰かに愛を貰いたくなるのも仕方ないことなのだけれど、最終的に自分を大切にしてあげられるのは自分しかいないから。

 

何歳になったってきっと、人間はいつまでも成長し続ける。

 

それは、ただただ上に伸びていくだけの成長、ということでなく。

 

気づきなどを重ねながら、いつまでも人間は変化が可能な生き物、という意味だ。

 

 

幼少期の頃から学生時代はどうしても「親」や「家族」の影響が強くなる。

 

経済的に自立しないと支配下から完全に逃れることは難しい。

 

大人になって経済力を身に付けることが出来れば、親や家族から自立することが現実的に可能になる。

 

経済的な自由が増えるほど「自分」にかけてあげられる時間、お金も確保しやすくなる。

 

だから、現実的な話をしてしまえば家族から離れて暮らす何かしらの力を身に付けることは重要なことだ。

 

否定癖の強い人達と同じ空間を共有しているだけで人は簡単に否定に洗脳されやすい生き物だ。

 

その洗脳を溶いていくことは時間や労力がかかる事だけど、その先にあるのはかけがえのない自由、そして等身大の自分だ。

 

 

子供の頃に育てられた過程で培った良きも悪しきも、まるっと全てひっくるめて「愛おしい自分だ」と思えたら、それだけでこの世に生まれてきた価値がある。

 

欠陥も沢山ある自分。

他人の事はよく見えるけれど、きっと人間なんて大体凸凹だらけなはずだ。

 

外には見せない、見えないだけで、完璧そうに見えるあの人だって、内側には色んなものを抱えていたりするんだろう。

 

しぬまでずっと、人間は何かに悩んだり、躓いたり、誰かに怒ったり、その繰り返しだ。

 

嫌な事だってあるけど、嫌な事ばかりでもない。

嫌なヤツに出会うことはあるけど、嫌なヤツばかりでもない。

 

誰かを通して、自分のいろいろな面に気づく。

 

誰かを通して、知らぬ間に成長させられている。

 

人と関わることで、良くも悪しきも全てひっくるめて、自分という人間、誰かという人間を理解していく。

 

何歳になったって、ずっとその繰り返しだ。

 

人と関わることを諦めなければ。

 

そして自分も人も「育む」ことをしぬまで諦めなければ。

 

 

「自分を大切にすること」を具体的に地道に遂行していきながら、同時に人の事も大切に出来たら、もしかしたら天に召されるその時に、素晴らしい人生だったと言えるのかもしれない。

 

 

自分を大切にすることについてもう少し具体的に掘り下げて改めて考えてみようと思う。

 

 

 

 

続く

 

 

人間を、舐めんなよ? ~哲学のススメ~

カテゴライズの功罪

 

人間に対するカテゴライズって、面白いし興味が尽きない分野だ。

社会学」「哲学」は「人間」を探求する学問だ(たぶん)。

 

人間探求の世界は「学問」として成り立っているものもあれば「趣味嗜好品」のように大衆受けのするものまで幅広い。

 

易学、西洋占星術とか、風水とか、血液型とか、数秘とか、その他諸々統計学的な類のものから、地域性、国民性、職業、家族、など属性による傾向とか。

 

雑にまとめてしまえば、ざっくりと「占い」と巷で言われるような分野も親しい。

 

人間を「属性」に当てはめると、悩むことは少なくなるだろう。

 

それを現代の人は「思考停止」とも呼ぶが。

 

だが、考えなくてもいいような事を延々と考えすぎると病みやすい。

 

考えたからといって答えが出ることばかりではないので、どこかでしっかり「停止」してあげることも時には必要だ。

 

カテゴライズすることによって安心したり、迷った時の指針になったり、考えすぎて悩みの沼に陥ることを防いでくれたりするから、世の中には沢山の占いがあるのだろう。

 

「相性が悪いから」「こういう特性だから」仕方ない、と割り切ることができたり。

 

 

占いって、友人たちと盛り上がるネタになったりして面白いなとは思うけれど

 

それに答えを求めるあり方は昔から好きになれない。

 

そういう「傾向」もあるんだろうな程度で、関係する全ての人間が微笑む事のできる余白がある距離感がちょうどいい気がする。

 

何かの大事な決断とか人間関係のもつれなどに対して勝手に人を分析するツールにされると、かえって人間関係が狭い世界に閉鎖されて残念な方に完結してしまう気がする。

 

 

無知の知

 

この世の不思議を解明していくスピリチュアル的な世界は神秘的で魅力的だ。

 

古代から現代まであらゆる占いがあり人がそこに惹かれていくという事は、それだけ人間の人智を集結しても未だずっと解明しきれないくらい、この世界は深淵なものに満ち溢れているという事なのだろう。

 

逆に考えたら、人智が集結しても未だ解明しきれていないこの世の神秘を、さも分かったかのように生きることは「傲慢」以外の何物でもない気がしてくる。

 

 

多面体である人の一部だけを見て、まるで知ったかのように決めつけてしまう。

 

ついつい、沢山勉強したり苦労して得た知恵が増えていったり、年齢や経験を重ねていくとこの罠に陥ってしまいがちなのだけど。

 

そういう時に戒めとなる言葉が「無知の知」。

 

人って、きっと永遠に「誰か」のことをすべて分かることなんて無いのかもしれない。

 

どんなに親しい人でも、家族でも。

 

そういう風に思っているくらいの人の方が、かえってコミュニケーションが取りやすいなと感じる。

 

逆にストレスを感じやすいコミュニケーションって、分かったような口調とか、決めつけたような言いっぷりだったりする。

 

私は問い続けることの好きなマニアだからかもしれないが。

 

決めつけられることで「安心」して自ら檻に閉じこもってしまう人もいるのだろう。

 

確かに、分からないことを考えなければならない事というのは全く興味が無い分野だとストレスにもなる。

 

けれどそれが目先の楽を求める思考停止から来ている依存だとしたら要注意だ。

 

 

「我思う、故に我あり」自由であり続けるために

 

占いは面白いけどそんなに好きじゃないのはきっと、依存するのがヤバイとかそういう次元の話よりもう少し繊細な「気持ち」の部分で違和感を覚えたことが多いからなのかもしれない。

 

「分析するのはいいけど、答えを決めつけないでくれるかな?」

 

みたいな。

 

もっと口が悪くなると「人間を舐めんなよ」的な?

 

統計や数値から割り出すのはいいが「気持ちが置き去りじゃねぇか」みたいな?

 

頭だけ持っていかれてしまうような。

 

 

一応断っておくけれど、占いやカテゴライズを否定しているわけではないのです。

 

 

ただ、経験した事で言うと

分析して決めつけられた時にいい気分になった事はあまり無い。

 

たぶん、相手の言葉に乗っかってくる何かを感じ取るんだろうな。

 

 

哲学って難解なイメージがあるけれど、自分の頭で考え続けること、疑問を持ち続けること、問い続けることは身近なことも含め全て広義に「哲学」なのだと思う。

 

 

私が話していて面白いなと感じている時って、振り返ってみればお互いに「答えのない問い」について延々と盛り上がっている時だったりする。

 

真面目な話でも、超絶しょーもない与太話でも。

 

仮に答えが出たとしても、真面目な話だったら両者対等に考えて落としどころを見つけた喜び的な感じだったり、しょーもない話なら「オチ」的な笑いだったりする。

 

そこの空間には「支配、被支配」もなければ「上下優劣」も何も無い心地よさを、無意識に感じているのかもしれない。

 

 

「哲学」って常に問い続ける面倒臭さのようなものを感じさせてしまいがちだが、「答えを決めつけないこと」は人と人がいつまでも「自由」であり続けるために必要なのものなんだろう。

 

問い続けるのはいつだって自分の気持ちや頭に対してであって、人に質問責めをするのはアカンけど。

 

 

 

 

終わり

 

調子に乗っちゃって♪

愛はきっと奪うでも与えるでもなくて 気が付けばそこにあるもの

 

by Mr.Children 「名もなき詩

名もなき詩 - Wikipedia

 

1996年発売なんですって。

 

 

時代が変わっても、今でも好きな詩だ。

 

20年以上経って、年齢を重ねてもずっと共感できる歌詞ってすごいなぁ。

 

歌って、リズムに乗って歌詞がストレートに入ってくるから音頭のリズムも含めて元気やパワーをもらえる。

 

歌を聴いている時って、唯一「調子に乗りまくっていい時」っすね。

 

 

一部、特に好きな歌詞を抜粋してみました。

 

・・・

あるがままの心で生きられぬ弱さを

誰かのせいにして過ごしている

知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中で

もがいているなら

僕だってそうなんだ

 

どれほど分かり合える同志でも

孤独な夜はやってくるんだよ

Oh darling このわだかまり

きっと消せはしないだろう

・・

 

愛はきっと奪うでも与えるでもなくて

気が付けはそこにあるもの

街の風に吹かれて唄いながら

妙なプライドは捨ててしまえばいい

そこからはじまるさ

・・

 

絶望、失望

何をくすぶってんだ

愛、自由、希望、夢(勇気)

足元をごらんよきっと転がっているさ

・・

 

だけど

あるがままの心で生きようと願うから

人はまた傷ついていく

知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中で

もがいているなら誰だってそう

僕だってそうなんだ

・・

 

 

さぁ、好きな音楽聴いて「調子に乗って」がんばろうーーーーーーーーーーーーーーーーー。

但し、他人に対して調子に乗ったらあかんよねーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 

 

毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために  ⑳

甘さは調味料、優しさは主食。人間関係は料理みたいなものだ。

 

 

優しさというのは強さを伴うと、時として厳しく映ることもあるのかもしれない。

 

優しさと、甘さは似ているところもあるが、違うものだ。

 

甘さや辛さはほんの少量でいい。

 

たとえて言えば、調味料のようなもの。

 

素材の味をほんの少量の刺激で引き立てる時がある。

 

けれどもどっぷり浸けてしまうと素材そのものの味もダメになってしまう。

 

それに調味料だけでは満足感は得られない。

 

 

一方、優しさは主食みたいなものだ。

 

安定感がありつつもそのものの味自体は強くない。

中毒性を産むような刺激物でもない。

 

ほんのり、じんわり、ゆっくり、毎日継続的に取り入れて育んで、生きるエネルギーの源になる。

 

優しさはベースではあるけれども、優しさだけでは足りないし、優しさだけでは生きていけない。

 

肉や魚のような動物的力強さも必要だ。

 

そして力強さが暴走しすぎないように、野菜や果物や豆類や海藻などの力を借りて落ち着かせることも必要だ。

 

栄養素は、不足しすぎても、逆に摂取しすぎても、不具合を起こす。

 

身体を構成する上で、筋肉、骨、臓器、皮膚、血液、神経、水分量などのバランスを司る。

 

主要なエネルギー源となる主食に加え、肉、魚、野菜、豆類、海藻類、果物、などの様々な栄養素を摂ることは健康な身体を維持していく上で重要だ。

 

自然の恵みをバランスよく摂り入れていくことが健全な心身には欠かせない。

 

たとえば糖質が不足すると、エネルギー不足によって疲れやすくなったり集中力がなくなり、逆に摂りすぎが続くと肥満や生活習慣病の原因となる。

 

そしてその栄養素も自然の循環と同様に、いずれも全て単体で独立しているものではなく、相互に深く関わり合って身体を維持している。

 

たとえばカルシウムが十分であってもビタミンDが不足するとカルシウムの吸収が悪くなるように。

糖質を効率よくエネルギーに変えるにはビタミンB群が必要であるように。

余分な糖を蓄えないためにも一緒に摂ることが大事なように。

 

 

人体の神秘も自然の摂理と同じ「循環」「相互補完」「バランス」の法則が大いなる力によって働いているのだろう。

 

 

冒頭の「甘さ」「優しさ」の話に戻ると、人の「心」には様々な機微がある。

 

優しさ、厳しさ、冷たさ、怖さ、甘さ、辛さ、酸っぱさ・・・などなど。

 

甘さだけではダメになるし、優しさだけでも生きられない。

 

厳しさだけでもダメになるし、冷たさだけでも生きられない。

 

何事も「加減」が大事ということだろう。

 

 

エネルギーのベースとなる主食には「優しさ」が欲しい。

 

優しさはベースだが、いつもそれに縛られて固定しなくてもいいじゃないか。

 

その時々で色々な食材や味変を楽しめることは豊かなことだ。

 

暑い夏には冷たいかき氷、寒い冬には温かいお茶が身に染みるように。

 

自然界の生き物だと考えたらそっちの方が自然で無理がない生き方だ。

 

恐縮している人には少しの甘さを。

舐めている人には少しの厳しさを。

 

料理の匙加減みたいに、ちょうどいい塩梅を調整して相互を活かし合えればいいのだろう。

 

 

料理って、自由な発想が出来るほど様々な角度からの発見も多くなるし、大胆な決断ができることで意外な組み合わせもより楽しめることが上手くなる。

 

もちろんその陰には失敗だって沢山あるものだけれど。

 

でも失敗したって何だって、自分の舌を信じるほどに、オリジナルのお気に入りレパートリーは強化されていく。

 

それはおそらく人間関係も同じなんじゃないかと思う。

 

 

人は自然の生き物であり、お天気のように多面体だ。

 

絶対的な性格というものがあるわけではなく、その時の環境や相手との相性により様々な顔を持つ。

 

相性の悪い調味料や食べ物があるように、お互いにいいものを引き出しあえる相性もあれば、不味い食べ物が出来上がってしまうような相性もある。

 

たとえ「血が繋がっていようと、なかろうと」基本は「人と人」だ。

 

 

調味料や栄養素のように、都度加減や味見の感想を持ちながら

その時々で臨機応変に、バランスを取るように。

 

健全な心身を維持するために、人付き合いも同じように考えるといくらか気楽だ。

 

バリエーションは組み合わせにより無限大。

 

シンプル、こってり、さっぱり、あっさり、ピリ辛、ちょい甘・・。

薄い、濃い。美味しい、不味い・・。

 

不味いを通り越して刺激に感覚が麻痺してしまったり、身体がSOSを出すような毒気を感じるのなら、潔く「NO」を突き付ける判断も健全な心身維持のためには大事なこと。

 

優しさをベースに、様々な調整をしながらアレンジを試行錯誤して楽しんでいけたらいい。

 

食卓をより豊かなものにするために様々な彩りをするように。

 

 

 

 

続く