毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために  ㉓

ちゃんと怒る・ちゃんと嫌う

 

久しぶりの更新になってしまいました。

読んでくださる方ありがとう。

 

毒親育ちと一口にいっても様々である事を念頭に置いた上で私の経験から思うことを書いています。

 

専門家ではないのでいち参考程度に考えてもらえるといいなと思っています。

 

 

生まれ育った家族の影響を受けて形成されてしまった自分の「性格の癖」「傾向」みたいなものについて改めて思うこと。

 

うちは母及びきょうだいの自己主張がかなり激しい方で、感情の表し方も強かった。

 

その反動か、持って生まれた性格か、私は小さい頃から落ち着いている子供だった。

 

無意識に、自分の居場所を確保するため、自分のエネルギーを必要以上に消耗しないために感情を抑えてきた事も沢山あるのだと思う。

 

泣いて叫んでも聞き入れられない事が多かったし、自己主張をしても倍返しで抑えつけられる

 

それなら「諦める」「冷める」事で精神のバランスを保っていたのだろう。

 

自己主張が激しく、怒りの感情が先だって落ち着いて話が出来ない母やきょうだいをどこかで軽蔑していたし、他人でもそういう感情的な人が苦手だった。

 

我の強さで人を困らせたら「負け」だとずっと思っていた。

 

空気を読まずに自由に自己主張するあの人たちは誰かを困らせていたように見えていた。

 

だからわたしは一歩引いて全体を俯瞰して客観的に物事を捉える。

無意識にバランスを取ろうとしてしまうバランサー。

 

これはもちろんある一方から見れば私の長所でもある。

 

そのお陰様でいい事だってあったはずだし、今でもそういう癖は「協調性」がヨシとされる場面ではそれなりに立派に役立っていることもある。

 

ただ、「怒り」「自己主張」「感情」を消してきたことの弊害に目を向けてみると、なかなか強烈な「闇」もあった。

 

 

気付くきっかけとなったのは家族への「怒り」とその根っこにある自分の「強い感情」だった。

 

強い怒りをぶつけること=悪いことだし「負け」。

でも、そんな事言っていられないくらいの心境だった。

 

その場の空気なんて読まずに、ただただ怒りをぶつけた。

 

言ってはいけない事とか、相手がどう思うのかとか、そんな事よりも「自分の気持ち」

「自分の感情」が優先だった。

 

きっとそれはわたしが強く嫌っていた、家族の姿そのもの。

いや、もしかしたら、キレたら誰も手が付けられないほどになってしまうわたしは家族の中で実は、一番厄介な存在なのかもしれない。

 

厄介というと語弊があるかもしれないが、結局同じくらい、もしかしたらそれ以上に面倒な人間だという。

 

そして血は争えないと実感した。

 

色んな意味で強烈な母、きょうだいだが、自分も相当に強烈なんだ。

 

ただその表現、方向、タイミングがきっと違うだけで。

 

 

そして、それでいいのだと今は思う。

 

何なら、そんな強烈な母たちに負けずに逞しく生きていくには、それ以上に強烈じゃないとダメなんじゃないかとすら思う。

 

メソメソしていつまでも被害者意識で生きるなんて有限の人生が勿体ない。

 

「怒ったり感情的に誰かを責めたりする嫌な自分」がいていいし、嫌いな人もいていいんだと思う。

 

投影とか深層心理とかそういう分析的なことは一旦置いておいて。

 

怒りをちゃんと表すことも時には大切だ。

相手がどう思うか、思いやりも大事とはいえ。

人のために我慢ばかりして自分を抑えるというのは一見大人なようでいて違う。

 

40歳過ぎてなんとなく分かってきたことだ。

 

ほんとの大人って(っていうかわたしが思う素敵な大人は)ちゃんと自己主張ができて、ちゃんと怒るべきところで怒ることが出来て、ちゃんと人並みに好き嫌いもあって、日々の色々な人間劇場の中をひたむきに、精一杯生きている人間臭いひとだ。

 

一番大事なのは自分の気持ち。

 

幼少期に置き忘れてきたもの、我慢して抑えつけてきた、原始的な感覚に改めて立ち返る。

 

怒りの根っこは寂しさだったり悲しさだったり悔しさだったり色々だ。

 

その感情は、幾つになってもきっと幼い子供が泣き叫んでいる気持ちとそんなに変わらない。

 

もういい大人だから、できるだけその表現の仕方はスマートでありたいし、他人に怒りに任せて何かを言うことはあんまりいいことはないだろうけど。

 

自己中がいい、とかそういう単純な事でもないし、人を尊重できる余裕は常に持っていたい。

 

けど、それだけではダメだという当たり前のことも最近しみじみ感じる。

 

これだけ沢山の人間がいるんだから、相性だってあって当然で全ての人に好かれるなんて無理な話でおこがましいとすら思う。

 

色んな人がいていい。色んな好き、嫌いがあっていい。

 

アカの他人ならそう思えたとしても「家族」にそう思えるのはもしかしたら一番難しいのかもしれない。

 

家族の中にも、色んな人がいていい。好き、嫌いがあっていい。合う、合わない、があって当たり前。

 

「血は争えない」とはいえ、「血が繋がっているから」同質であるべき、仲良くすべき、とも限らない。

 

ドライな考え方で信じられない人もいるだろうけれど、きっとそれもこの世にある無数の事実のうちの一つなんじゃないかと思う。

 

 

嫌だなと感じる人はちゃんと嫌う事も時には必要だ。(最低限のマナーとモラルさえ守っていれば)

 

嫌う事に同調を求めてしまったり、同調圧力で無視したり否定したり袋叩きにするのは「イジメ」になってしまうし、そういうダサイことはしたくないが。

 

人間の誇り、尊厳、ってそういうネガティブな部分もひっくるめて自由を認めることがとっても大事なんじゃないかと思う。

 

 

 

 

続く