毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために  ⑱

毒を認め、毒を愛する

 

冷たい気持ちにさせる家族の嫌な出来事は、完全に記憶から消え去ることはきっと無いだろうと思う。

 

親やきょうだいの嫌なところ(自分が絡んで被害を被ると付き合いきれないところ)は反面教師だ。

 

自分が家族から離れる段階で、自分の一部(の人格)を強烈に嫌えば嫌うほど、私は自分と人を強烈に責めてきた。

 

そのせいで、その時期は暗黒の思い出が圧倒的に多い。

 

常にどこか苦しくて重たくて、誰かに分かってほしいのに心を閉ざしていて、だから強烈な闇を分かってくれそうな精神世界のセミナーに依存しかけたりした。

 

自分を許す、人を許す、の意味が腑に落ちなくて色々なところを彷徨った。

 

出会う人出会う人(というより心が反応して関わってしまう人)、次から次へなぜか似たようなタイプの人が多くて、それは同じように強烈に自分を責めて人を責めているような、自分と人を傷つけている人達だった。

 

そんな日々の繰り返しで心身共にボロボロになりながら、その暗黒の冷たい世界から抜け出すには、嫌でも自分や家族の闇と向き合わざるを得なかった。

 

 

もちろん今も、生きている限りは色々なことが日々起きるわけで、嫌な気持ちになることもあるし、なんだかなーと憂鬱になることもある。

 

 

だいぶ時間も経って、あれだけのバトルや辛いことを経ても、何度も似たようなことを繰り返してしまう家族との距離の取り方や、自分との付き合い方も、あの時よりは分かるようになってきた。

 

今でも親や家族を純粋に「好き」と言えるかというときっと「NO」だ。

 

でも、「嫌い」かと言われたら意外と以前ほど「YES」というわけでもない。

 

その一番のワケはきっと、自分を大事にするためにコツコツと日々取り組んできたことの成果なのかもしれないとも思う。

 

何年もかけて「自分を愛すること、許すこと」に地道に取り組んできた。今もその途中だ。

というよりきっとこれは一生をかけて取り組む課題だと思っている。

 

意識しだした最初の頃は、何をしたら許せるのかも分からないし、何をしたら愛せるのかも分からなくて、様々な方法論(手段)を試してみたりした。

 

世の中的にも(心理学や精神世界の界隈的に)ご自愛的なムードが高まっていたし、私もそういうものを片っ端から読み漁っていたりした。

 

参考にさせてもらえたこともあるし、自分には全然しっくりこなくて冷めた目で見ていたものもある。

 

そこは「いいか悪いか」の正誤ではなく「自分に合うか合わないか」で感覚的に判断していいんだと思う。

 

目的はそれが正しいか、ではなくてあくまでも「自分を許す、愛する」ためだから。

 

その手段については人それぞれでいいけれど、性別女子として私のお勧めの方法などはまた別の機会に書こうと思う。

 

 

そして、不思議なことに「自分を許す、愛せる」ことが少しずつ腑に落ちてくると、周りの環境も少しずつ変化がみられてきた。

 

それは別に魔法のように目の前の人物が豹変して善人ばかりになる、とかそういう事ではない。

 

自分をがんじがらめに縛り付けていた見えない鎖のようなものがほぐれていくような感覚だ。

苦しい、重たい、という呪縛を解いていくような。

 

自分を許せることが増えてくると、人に対しても前ほど責める気持ちがやわらいでくる。

 

家族と別の「自分としての人格」でちゃんと社会の中で生きるようになってくると、「自分が自分であること」に少し誇りを持てるようになってくる。

 

そして、その「自分」というのは紛れもなく「親」や「きょうだい」から影響を受けてきた自分でもある。

 

まっさらに別の人格になりたいと何度も願って試してみたりしたけれど、やはり根本的な「核」は変わらないのだな、と思う。

 

一人の人間なので当然、親やきょうだい達と「別の人格」ではあるのだけれど、どこかで「似たような人格」をも持っている自分の存在にも気づく。

 

散々「毒」と書いていつつ、そんな自分の中にも「毒」はあることも知っている。

 

それは、知っているから同じように人に連鎖してもOKという「許し」とはまた別の感覚だ。

 

うまく言葉だけでは伝えられないけれど、誰が悪いわけではなく、みんな苦しい日々を生きているという「同情」にも似た気持ちで家族のことを見られるようになってくる。

 

でも「許して密に付き合い続けること」が必ずしも正解ではないから、「許す、愛する」ことと、「付き合い続ける」ことを一緒に考えない方がいいのだと私は思う。

 

 

 

 

続く