若かりし頃に上司になった時の私は、自分が部下だった頃に理想の姿として描いていた「物分かりがよく、優しく、部下から慕われる上司(そして当然仕事がデキル)」を目指していた。
だが事実は、そんな理想とは程遠い姿だった。
物分かりがよい(と自分で思い込んでいる)、優しい(フリ)、部下から慕われる(体裁だけ)だった。
仕事の成績だけは個人としてもチームとしても最初から最後まで死守したが、ただそれが「=仕事がデキる」事でもないという事実に気づいたのは、退職してだいぶ経ってからだ。
若さも手伝って傲慢になっていた私は裸の王様だった。
結局のところ、当時の私の仕事の理想なんて大したものはなく、原動力は強い承認欲求だった。
他人に認められたい。
それを紐解くと根っこにあったのは、親に認められたい、が一番。
そしてきょうだい達に負けたくない、が次。
その一心だった。
自分が一番評価されなければ価値がないと思っていた。
そのネガティブで恐ろしいほどの力を持つ承認欲求のお陰で、成績や評価はよかった。
外部から刺激される事で8割がたくらいの仕事のモチベーションを保っていた。
だから、いつも苦しかった。
残り2割くらいの仕事を楽しめる瞬間ももちろんあったけれど、それより全体的にしんどさが上回っていた。
怒りからくるモチベーションは、長くは続かない事をどこかで分かっていた。
怒りからくる承認欲求は、周りを幸せにしない事も心のどこかで感じていた。
だが、その時の自分はどうしていいのかわからなかった。
思うように動かない部下や、自分の邪魔をするように見える人間達に対してどう接していいのか分からずに、有無を言わせない力を見せつけて打ち負かす事で、どうにか自分の心を保っていた。
権力で抑えつけるのなんて、ばかでもできる一番安易な方法だ。
そんなダサイ人になりたくないのに、組織や評価の渦の中で気づけばダサイ人間になっている。
自分の心や美学に反する事を続けていくと、心がどんどん凍っていく。
ずっとそうやって見えない何かと戦っていた。
どこへ行っても誰といても逃げられない「見えない敵」がいる人生は、重たくて苦しい。
荷を下ろしたくても、どう降ろしていいのかが分からない。
自分の心にウソをつき続けながらゲスな下心を持つ人間は傍から見るとなかなか気持ち悪くてウザいものだ。
必死で闘う姿は痛々しく見苦しかっただろう。
途中から、自分でもどこを目指せばよいのか分からなくなっていた。
仕事を楽しんでいる人達共通の、自然とあふれ出てしまうような魅力、があるわけでもなく。
部下から自然と慕われるほどの人間力、もなく。
心根が優しい人の持つ、自然と漏れ出てしまう思いやり、があるほど性格も良くない。
だから、大して努力や苦労もしていなさそう(に見える)のに他人からの良い評価をかっさらっていく人間や、ノンビリモードの人間にイライラした。
内心はどこかで羨望の気持ちがあったのだと思う。
その経験は無駄なものではないし、もちろん全てがダメだったわけでもない。
若さゆえの葛藤もあっただろうけどそれを差し引いても、人としてちょっとよくない方向に突っ走っていたなぁと思う。
承認欲求は人として備わっているものだけど、強すぎておかしな方向にいくとあまりいい事はない。
闘い果てて疲れきった自分を救う事が必要だった。
一度全てをリセットして降参するしかなかった。
等身大の自分に戻るための時間が必要で。
長年被ってきた仮面を外して冷静に素顔の自分と対話する時間。
長い時間をかけてこびりついたものを落とすのは、簡単ではない。
弱くて、寂しくて、苦しくて、プライドが高くて、ちっぽけな自分。
大人の仮面をつけて、無理して強がってきた自分。
無理やりポジティブに攻めて生きてきた分、一度崩れると反動のようにネガティブになった。
惨めな自分と嫌というほど向き合わざるを得ない出来事に何度も心が折れる。
が、等身大の自分でいるためには不必要なものはどんどん削いでいくしかなかった。
今でも、あの時に自分が羨望の眼差しで見ていた「自然と」楽しめている軽やかな人になれているかは分からないけれど
少なくともあの時よりは心に背負っている錘は軽くなっている。
人生後半に向かうほどに、どんどん軽やかに心は自由に生きていきたいものだ。
そのためには、幾つになっても、順風満帆な時も、時に立ち止まって鏡の中の自分を見つめる必要がある。
ダサイ姿になっていないか?と。
(終わり)