知らぬなら、どちらにしても〇〇やろう?

無知の知

 

「教える優しさ」と「黙っている優しさ」

 

 

 

「知ったかぶり」はバレると恥ずかしい。
 
 
 
大のおとなが「知ったかぶり」をする時には、ン十年生きてるにんげんを舐めてかかってはいけない。
 
 
 
 
誰もが「知らない」状態で生まれ、時に恥をかきつつも失敗や経験を積み重ねて「知ること」が増え成長していくものだ。
 
 
 
だから経験の浅い子供や若者が多少イキって「知ったかぶり」をしたとしても仕方なく、可愛げすらある。仮にそれが訂正すべきことだったとしても「教える」事にも抵抗は少ない。
 
 
 
 
決して「知ったかぶり」がいけない事だとは思わない。
 
 
 
世の中には「知らないこと」を「恥ずべき事だ」「マウントされるのではないか」と恐れるひとは沢山いるし、実際マウントしてくる〇〇もいたりする。
 
 
 
そのため「知らない風」より「知ってる風」なテイでの言動を取った方が、〇〇から〇〇にされるリスクは減る。
 
 
 
そして仕事では「お金」を頂戴するために、時と場合により「知りません」は怒られるor何らかの損失を招く可能性が増えるため、必死で「知ったかぶる」方がいい場面は確かにあったりする。
 
 
 
ただその場合は比例して「期待」も広げてしまう分、一歩間違えると自分の首をしめる可能性も秘めている。どのみち自分への負荷が多いので、たいていのリスク回避型のヒト達は極力「知ったか」は避けるように努めるだろう。
 
 
 
 
問題は仕事以外の場面で遭遇する時だ。
 
 
 
 
会話の中で、「不必要に」知ったかの「無駄打ち」をすると目立つ。
 
 
 
ヒトの持つ「違和感」というセンサーは案外優秀なので、たいがいがなんらかの違和感や不快感として相手に気づかれる。
 
 
 
年齢を重ねるほどに、日々の「習慣」はあらゆるところに出るので、普段やっていないであろうことや取っていないであろう言動を「付け焼刃的に」取ると、どこかに綻びが出たりするものだ。
 
 
 
 
「知ったか」に気づいてしまった時の、大人の反応は主に2パターンに別れる。
 
 
 
「知らないフリをするか」(黙っているか)
 
 
「積極的に関わるか」(なんらかの方法を用いて教えてあげるか)
 
 
 
 
「知らないこと」を「恥」として〇〇にする世界に生きているヒトにとっては、相手がどんな世界の住人であろうと「自分が知らないこと」を晒すことは〇〇にされる事になってしまうので「知ったかぶり」をせざるを得ないのだろう。
 
 
 
 
だがここで「知」のトラップがある。
 
 
「知っている」事に自信のあるヒトほど注意が必要だ。
 
 
 
「知」の戦に積極的に関わる事は、終わりなきマウント合戦の蟻地獄に陥る事を意味する。
 
 
 
「〇〇に教えてやろう」と意気込んだ結果、気づけば自分も〇〇だった、という事になりかねない。「〇〇につける薬はない」ということばがある。
 
 
 
だから賢いヒトは〇〇を避けるため、「優しい無視」つまり「知らないフリ」のスタンスを取ることが多いのではないか。
 
 
 
 
時と場合と相手への関わりの度合いによって「教えてあげる優しさ」もあれば「知らないふりをしてあげる優しさ」もあるが、面倒ごとを嫌う「オトナ」は「知らないふり」をしているだけの事も多い。
 
 
 
いちいち言うメリットが見当たらないからだ。
 
 
 
ということは。「諦めたらそこで試合終了」なのである。つまりバレた上に相手に「優しい無視」をされたら「ジ・エンド」なのだ。
 
 
 
 
だから大人が「知ったか」する時には十分気をつけなければならない。
 
 
 
相手が大人しいからと言って「こいつは〇〇に違いない」と相手の「優しさ」に甘んじて妙な優越感をくすぐられてしまったとしても、優越感に身を任せ上から目線になってはならないのだ。
 
 
 
〇〇認定されたくないあまりに一番避けたかったはずの「恥」を、知らぬ間にかいている可能性もあるということだ。
 
 
 
自らヒトを〇〇と決めてかかる時は、実は相手からも「こいつ〇〇だな・・・」と軽蔑される可能性が高いのだ。
 
 
 
 
世の中に、じぶんの知らないことは沢山ある。
 
 
いつまで経ってもこの世のすべてを知ることはできない。
 
 
お互いに気持ちよく過ごすためにはお互いの持つ「自分の知らない」世界へのリスペクトが必要だ。
 
 
経験を重ねるにつれ「知った風」になってしまうこともあるけれど、多種多様なヒトの世界を知れば知るほどに「知らないこと」の多さに気づく。
 
 
 
じぶんて「〇〇だな~(利口の反対)」と思っているくらいが、しあわせに、共に笑い合いながら生きるにはちょうどいいのかもしれない。