「家の雰囲気」は各家庭ごとに異なる。
「親孝行しよう」の言葉は「正論」であるが「万人を照らす光の言葉」ではない。
ヒトによっては暗い影を落とし「家庭の闇」と「不甲斐なさ」を感じる鉛のような重たい言葉でもある。
子供の為に懸命に人生を捧げて育ててくれた親に「感謝」の気持ちを持つ事や「孝行」する事。
それは誰から見ても「非の打ち所がない」模範的な姿勢。
それが出来る人は
自然と感謝の湧き出るような良好な関係を築いてきているのかもしれないし、
子供に好かれるような親なのかもしれない。
「しなければならない」と義務感を持って自律心のもとにしているのかもしれない。
「親」と一括りにいってもそこにはヒトの数だけドラマがあるもんだ。
「家族の闇」にひっそりと葛藤を抱えているヒトは、案外いる。
他人に軽く話せるような事でもない分、表出しにくいだけで。
「家族」「家庭」とはそのくらい「パーソナル」な場であり「パーソナリティ」を作る大元でもある。
家庭の数だけヒトの形がある。 一括りにしようとする方が無理がある。
「正論」は自分の行いを律する為に使う分にはいいが、他人にとやかく言うものではなく、ヒトの心を抑えつける為に使うものでもない。
理想的な幸福論を自分の家庭に当てはめて、幸福度が増えるのならばそれがベストだろう。
当てはめて苦しくなるのなら、それは「何かが違う」んだろうということ。
その「なにか」はあなたが間違っているわけでも、理想的で模範的に見える「誰か」が正しいわけでもない。
「模範的で非の打ち所がない」(ように見える)大人の言動は、時として「そうしたくても出来ない」ヒトの闇を炙り出すものにもなる。
「親孝行したいからしよう」は素敵な姿勢だが
「親孝行しなきゃいけない、しないは親不孝」の正論を言うヒトに出会った時は、適当に聞き流そう。