毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために ㉕  ~完~

親を超えていく

 

親に感謝できない出来事が自分を苦しめているとしたら、世間一般の「親への対応」に縛られることを一旦やめてみる。

 

なぜなら毒親育ちは「自分の事を第一に考える訓練」を「意識的に」しないと、いつまで経っても周りの顔色を伺いながら我慢して生きる事になるからだ。

 

いつになったら親を受け入れられるのか、許せるのか

 

そういう事に囚われて悶々と苦しんでいても報われないままだ。

 

感謝とか、親孝行とか、そんな事は二の次三の次だ。

 

まずは自分の人生を生きる事が優先で、ようやく余裕が出来た時にそういう事は考えたらいい。

 

その余裕が出来る時だって、それが来るのか来ないのか、そういう事も気にしない方がいい。

 

自分を生きていくうちに親に囚われなくなっていくことで、いつしか親を超えていくのだろう。

 

 

 

隣の芝生の青さ

 

世間一般的に「毒親」の基準に分かりやすく当てはまってしまう親と、そうでない親がいると思う。

 

だが、きっと世の中に「完璧な親」はいない。

 

自称「私の親は完璧です」とか「私は完璧な親です」っていう人とか「傍から見ている限りあの人は完璧な親です」って人はいるかもしれないけれど。

 

同じく「私の親は毒親です」「私が毒親かもしれません」「あの人は毒親です」っていう人がいたとて、子供が「うちの親は毒親じゃありません」って思えばその人は毒親じゃないという。

 

そのくらい、人の認識って曖昧なものだ。

 

誤解を恐れずに言ってしまえば、誰かの「親」である以上、どんな人だって多少は毒親の要素を持ってしまうんだと思う。

 

誰しも完璧ではないまま歳を重ねていく。

 

傍から見たらそうは見えない人にだって案外複雑な思いがあったりするものだし、あまり悩みのなさそうな人だって、実は何かしら抱えていたりする事もある。

 

とっても仲良くて羨ましい親子とか家族は確かに存在している。

 

でも、羨ましがっても嫉妬してもそれを自分が手に入れられるわけではない。

 

そんな家族にだって、何かしらの秘密があるものなのかもしれない。

ないかもしらんけど。

 

家族って各々がその家庭ごとに特殊な世界があるから、他人には分からない事が沢山ある。

 

隣の芝生が青く見えていたとしても、真実なんてどうでもよくて、自分にとって案外それは幻想なのかもしれないと思っているくらいでちょうどいいんだと思う。

 

 

 

自分も、親も、同じ未熟な人間で

 

「許す」とか「感謝」とかそういう綺麗な言葉では片づけられない毒親問題。

 

自分が40歳過ぎても未だ、人間として成熟なんて程遠いと日々思う。

 

きっとしぬまで、そんなんなんだろうなーと。

 

そして「親」って大変だなと思う。

 

子供のまま、未熟なまま、社会を知らないまま、世間をよく知らないまま、子供を産んで育てていかなければならなかったら、子育てを楽しめる余裕なんてきっと全く無いだろう。

 

とにかく必死で目の前のタスクをこなして、とにかく必死で人間という生き物を育てていかなければいけない。

 

気付けばあっという間に子供が大きくなっていって、気づけば反抗されたり嫌われたりして。

反省や後悔や失敗なんて挙げ出したらきっとキリがなくって。

 

だからといって親に同情しろと言っているわけじゃないけれど。

 

ただ、親も親で必死で生きてきたんだという事。

 

何かに追われながら、何かに縛られながら、何かに囚われながら、悩みながら、泣いたり笑ったり、怒ったりしながら、親も親で自分なりの精一杯を生きてきたんだろう。

 

同情はせずにドライに考えてしまえば、己の愛情の注ぎ方がまんま返ってきてしまうのだから、ある意味子育てって一番ウソが効かない作業なんだろう。

 

そんな親とどう付き合っていくのかはその人ごとに色んな考え方があって、その時々の自分に問いながら自分の納得のいくようにしていけばいい。

 

絶対的な正解に縛られる必要もなく、波のように揺らぐ感情に無理に蓋をせず、自分の心を雑に扱わないように。

 

そして、そんな自分の未熟さとか、出来なさとか、ダメさとか、愚かさとかもひっくるめて愛せる人間の方がきっと人生って楽しいんだと思う。

 

それと同じくらいに、他人の未熟さとか、出来なさとか、ダメさとか、愚かさとかも愛せる人間はきっと人生が豊かなんだと思う。

 

そして最後に、幾つになっても未熟で、出来なくて、ダメで、愚かな親の事も愛せたら、きっともっと見える世界は優しいものになっていくのかもしれないなと、思う。

 

 

 

終わり

 

 

P.S.

ここまで「毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために」を長い間読んでくださった方達、ありがとうございます。

 

毒親についてのブログは一旦今回で終わりにします。

 

私自身が書くことによって救われてきた部分もあり、書くことによって気持ちの整理が出来た事もあり、読んでくださっている方達がいることで、励みにもなっていました。

 

こちらの毒親ブログは、過去の私のように悩んで辛い人の目に止まったらよいな、との気持ちでずっと書いてきたので、今後もずっとこちらにこのシリーズは残していく予定です。

 

今後はまた別の形でこちらのノートには引き続き何かしらは書いていくかもしれません。

 

相変わらず不定期更新にはなるかと思いますが、引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

女の美学 ~自分おかしいの?って思ったら~

なんか違う、っていう感覚は、きっと間違っていない。

 

普通 一般的 なものや生活、価値観にいまいちハマりきれない、とか

 

誰かに言われた事が、世間一般的に正しい事だとしてもなんか納得いかないとか

 

自分はおかしいんじゃないか、

 

自分に合うものや人なんて、どこ探してもないんじゃないか、とか

 

思うことがあっても

 

大丈夫。

 

その答えはきっと自分の先の未来にある。

 

自分の欲しい答えは、自分の奥底に眠る自分が一番よく知っている。

 

 

かといって、誰かが間違っているわけでもない。

自分だけが悩んでいるわけでもない。

 

みんな、それぞれに悩みながら生きているし

 

マジョリティの中の人だって、似たような感覚は持っていたりする。

 

ただ、それを感じる強さが様々なのかもしれない。

 

うっすら感じても見ないことにできちゃう人

 

奥底にあっても気づかない人

 

悩んでも仕方ないから考えない人

 

そして、感じる強さが人よりあるのだとしたら、実行する強さも伴うと自分の思い描く何かを手にする確率は増えるだろう。

 

感じるのに蓋をし続けたり

誰かの意見を崇めすぎたり

多数派でいようとし続けたりすると

 

きっとずっと悩みは尽きないし

下手したら病んでしまう。

 

努力も人一倍できてしまう人は、違う方向に努力してしまうと精神的にも多大なエネルギーロスになる。

 

その強さを、自分を責めるエネルギーに使わないでほしい。

 

思いが強ければ強いほど、ベクトルを違えると病んでしまう。

 

無理やり誰かの基準に合わせる方向に努力するのではなくて

自分の基準を実行していく方向に努力をする。

 

思い描く自分の基準に沿って行動し続けることは、感受性の強い自分を救ってくれる。

 

たとえ誰かが「今」わかってくれなくても、先の未来の自分と答え合わせが出来たらそれでいいのだと思う。

 

ただし、自分が基準だからといって無闇やたらに周りを敵に回してしまうのはよくない。

 

もちろん、迎合する必要はないし、違うものは違うと断固示す姿勢も時には必要で結果的にそれが袂を分つことになる時もあるだろう。

 

ある程度は、合わないものと離れる勇気も必要で、それは仕方ない。

 

ただ、ある程度の年齢になったなら周りとも適度に調和しながら生きる方が幸せ度も高くなる。

 

孤独を知っている強さと、孤立はまた違う。

 

迎合ではなく、調和。

 

敵対ではなく、自立。

 

和して同ぜず。

 

これが一番難しいのだけど、まずはお互いの違いを尊重する事からなのだと思う。

 

それでいて自分の芯を持ってる人は魅力的だし、そんな自分になっていたいなと、思う。

 

 

終わり

 

 

 

 

女の美学 ~邪気を跳ね返せる女でいる~

選べる強さ

 

たまに遭遇する「あからさまな邪気」を持った人がいる。

 

「邪気」っていうとなんともスピリチュアル的な響きだけれど、要は「悪意」のある言動が見られる人っている。

 

すご~い!って褒めるフリしてバカにしてくる、とか

だぁいじょうぶぅ~?って心配するフリしてその実ほんのり不幸を楽しんでいる、とか・・。

 

怖いんですよ、その「気」が。

 

それで、そういう人って必ず相手に「モヤ~」っと重ったるい何かを残す。

 

それが狙い(きっと無意識)だろうし、相手の自己信頼とか自信を奪って落ち込ませる事に「安心」したいんだ。

 

だから、まともに付き合ったら不思議と自分まで「なんか不幸な女」の魔法をかけられなんとなく運気が低下してしまう感じ。

 

相手の思惑通りになってしまえば格好の「餌」だ。

 

 

そういう事を「鏡の法則か?」

とか掘り下げて独り悶々と考え出すとキリがない。

 

そりゃ人間だもの、無邪気な赤ちゃんでもないオトナだもの、自分にも邪気が全く無い事はない。

 

どこか欠けている自尊心の何かや、家族に対する歪んだ価値観の何かが引っかかって反応してしまっているのかもしれない。

 

心理学的に考えられることを総動員してみても、やはり最終的に神様でないと出会ってしまう原因はよく分からない。

 

イヤな人に一切出会わないというのも生きていると難しかったりする。

 

出会ってしまうのは仕方がないから、出会ったとしても引っかからない、邪気を跳ね返せえる自分になるしかない。

 

根本的な解決法といえば、とにかく自分の内面と向き合う事になってくるのだけど

 

やはり時間もかかるし、根気もいるし、プロの手を借りたりする必要があるかもしれない。

 

今回はそういう抜本的解決法は一旦置いといて、即効性のある方法の話だ。

 

シンプルで、考えなくてよくて、効果はバッチリだ。

 

それは

 

波長を合わせない

 

という事。

 

言葉も、行動も、目線も、全て。

 

あからさまに無視するとか、目を合わせないとかはダメで。

 

かえって敵意を持たれて執着されちゃうから

 

さりげなく、さらっと、がポイント。

 

 

どうしても避けられない状況にいるとして、イヤ~な重ったるい邪気を感じたら

 

トイレに行くフリしてサッと席を立つ

電話に出るフリをして会話を途切れさせる

荷物を取るフリをしてバッグの中をゴソゴソ探る

誰か他の人や物が通ったらそっちを見て「気」を逸らせ集中力を途切れさせる

身体を動かして伸びをする

肩や首を動かす

手や腕や腰や足を動かす

目や口を動かす

 

大きな行動から小さな行動まで、その場のシチュエーションで出来る限りの「動く」ことをとにかくやる。

 

漫画みたいな感じを想像してもらえると分かりやすいけど、単純に相手の「波動拳」を「よける」イメージでOKだ。

 

頭、顔、目、肩、腕、手、胸、腹、腰、足、身体の全て、相手の波動を受け止めないようにする。

 

波動とかいうと目に見えないものだから意味分からないかもしれないが、確実にそこにそれは存在していると思って「憑かないようにする。憑きそうなら払う」感じ。

 

イヤ~な顔でやってしまうと気づかれるから「真顔」か「笑顔」で「さらっと」ね。

 

とにかく「自分から」アクションを起こすこと。

 

更なるコツは「サッと」「シャキッと」素早い行動を心掛ける。

 

隙を与えないくらい凛としていることが望ましい。

 

受け身で相手のビームを受け続けてしまう事だけは避けること。

 

そのために日頃から意識して出来るだけ「シャキっと」動いていると、いざって時に役立つよ。

 

 

 

終わり

 

 

 

 

 

女の美学 ~嫌いな他人の調理法~

調理の匙加減

※自分に対して害を及ぼす強烈な人(毒親やパーソナリティ障害が疑われる他人)は除きます。

 

もっとライトな関係性(職場や趣味仲間や親戚や近所付き合いなど)での話。

 

 

 

嫌いな人が丸ごと食材だとしたら、嫌いな食材を丸ごと食べろというのはちょっと雑で暴力的な考え方だろう。

 

無理やり好きになれ、というのも同じく暴力的な考えだ。

 

じゃあ、嫌いな食材だから雑に扱っていいか、嫌いだから捨てていいか、というのも暴力的な考えだろう。

 

食材にとって失礼だし自己中心的すぎる。

 

 

食べ物と人を全く同じようには捉えるのはやや無理があるけれども

 

嫌いな人を好きになることは難しい。

 

人間だもの、好き嫌いあって当たり前。

 

嫌いな人は嫌いのままでいい。

 

 

そしてそれは「お互い様」だ。

 

もしかしたら誰かも自分の事を「嫌い」って思っているかもしれない。

 

何気なく発した一言とか、そんなつもりじゃなかった会話とかリアクションとか、

 

そう、自分では全く無意識で行っている数々の言動が、誰かの癇に障っていることだって普通にあり得る。

 

人間というものは感覚的なものであり、常に移ろい続けていくものなのだろう。

 

だから、人間関係に「正しさ」を持ち込むと崩壊する。

 

嫌いのままでいいからって嫌いを正当化して攻撃するのはダメだ。

 

 

人間関係は「適当」が一番だと思う。

 

 

で、具体的にどうしたらいいかというと

 

意識しすぎないこと、嫌いと思い込み過ぎないこと

 

これが出来ることが「嫌いな人沼」から抜け出せる近道だ。

 

「嫌いな人」がいなくなってくると、平和で幸せな世界が広がってくる。

 

 

ここで勘違いしてはならないのが

 

「嫌いな人がいなくなる」≠「好きな人だけになる」

「嫌いな人がいなくなる」≠「みんなと仲良くしなければいけない」

「嫌いな人がいなくなる」≠「みんなから愛されなければならない」

 

ノットイコールだ。

 

 

もちろん、純粋無垢な子供のようにみんなを好きになり、みんなと仲良くし、みんなから愛される、そんな人がいたらそれはそれで素敵かもしれない。

 

大人になってまでそんな邪気のない人間が実在するとはあんまり思えないけど。

 

偉人伝に出てくるような歴史上の人物とか、あれはもはやファンタジーだし。

 

 

でも、自分が「嫌い」と強く思うのも、誰かから「嫌い」と強く思われるのも、どっちにしても疲弊する世界だ。

 

血で血を洗うハードモードな世界に生きたくはない。

 

だから、人当たりはよく、人には親切にする、というのは至極真っ当なことで、ある意味大正解。

 

だけど、自分納得しないとできないんだよね、訳わからないのにみんなに愛想なんか振り撒いてられっか、っていう私みたいな面倒くさい人もきっといると思う。

 

そういう人のために哲学はある。

 

 

訳も分からず愛想を振り撒かなくてもいいし、イヤな時でも笑顔で耐えるとか、ドMじみた事もしなくていいと思う。

 

ちょっとくらい態度に出たっていいと思う。

 

ただ、気をつけるべきことは相手に失礼のない程度の言動を心掛けること。

 

あとは、たとえ納得しなくても嫌いな人を徹底的に嫌わないこと。

 

 

嫌いな人も誰かにとっては大事な人だったりする。

 

自分もそうなように、相手にも相手の事情がある。

 

 

どんなに悩んでいようが相手は相手の世界を生きているし、

あなたが悩み苦しんでいる今頃、相手は笑っているかもしれないし、

あなたの事なんて1ミリも考えてもいないかもしれない。

 

それは自分も同じくだ。

 

知らないところで誰かが自分の事で悩んでいたって、知らなければ頭にも浮かばないし、それでも人生は日々良きに計らって進んでいく。

 

 

嫌いな人を食べ物だとして考えたらなるべく食べたくないだろう。

 

だが、好きな物だけしか食べないことをしていると人間の身体は栄養が偏ってしまう。

 

嫌いな人ってのは食材と同じく、不味いけど全体的なバランスを考えたら少々必要悪みたいなものなんじゃないかと思う。

 

自分を磨いてくれる事ってどちらかというと痛みを伴う事だったりする事も多いし。

 

とはいえ、それが全てではないし人間関係は好きな人に囲まれるのが幸せだ。

 

できれば嫌いな人なんかと積極的に関わり続けたくはない。

 

特に40代を過ぎたらそういう修行の時期は過ぎていると思う。

 

なのでここで「嫌いな人と無理に付き合うことが正解」ではなくて、繰り返しになるが、なるべく「嫌い」の意識を減らしていく方法がベストなんじゃないかと。

 

捉え方としては、嫌いな食材を刻んで混ぜるとか煮込んで柔らかくしてみるとか、好きな調味料、スパイスとかハーブとか薬味的な感じとかで調理法を工夫して、少しくらい食べるか、的な考えで取り入れてみるといいんじゃないだろうか。

 

嫌いの理由があるはずなので、食感なのか硬さなのか味なのか匂いなのか見た目なのか、分解していって一番合う調理法を探す、みたいな。

 

なんとなく嫌い、みたいな感覚だとしても、細かく砕いていくと何かしらの理由があると思う。

 

嫌いな食材にも一応敬意と愛情を払いつつ、嫌いのままでいいから適当に食す、的なスタンスで。

 

そんなことをしている間に、気が付いたらそこまで嫌いでもなくなっていたりして。

 

 

まぁ、吐きそうな時に無理に食すのはやめた方がいいから、自分の腹の余裕と相談しながらになるけど

 

 

そしたらラッキー、くらいな感じで軽く考えられたらいいよね。

 

 

・・・食材の例え、かえってわかりにくいか?(笑)

 

 

 

終わり

 

 

 

 

女の美学 ~苦手な人とのコミュニケーションは高度なゲーム~

正しいプライドの持ち方

 

世の中には色んな人がいて、苦手な人も、合わない人もいる。

 

それ自体は仕方がない。無理に好きになろうとしたり、仲良くなろうとしたりしなくてもいいと思う。

 

とりあえず、挨拶や最低限の会話くらいしていればいいのだと思う。

 

それでもなぜか、大体なんとなく合わない人と話していると、モヤっとしたりイラっとしたりする事もある。

 

モヤっとしたりイラっとするのはごく自然な感情なので全く悪いことではないが、その先の対処法は一旦落ち着いて考えたい。

 

感情的に何かを言ってしまうのはよくない。

 

そういう時こそ、ゲームのように攻略法を考えて自分の中だけでこっそりと勝ち負けの基準をつくればいい。

 

ここで大事なのは

・実際に目に見える勝ち負けとは違う事

・勝敗を相手に感じさせた時点でゲームオーバー

・相手を「負かさない」こと

・自分も「負けない」こと

 

モヤっとを見過ごし飲み込んで我慢するだけもダメ。

ムカッときてつられて感情的に言い返すのもダメ。

 

「相手に花を持たせる」時があっても、上下関係は作らない。

 

つまり相手のペースに飲まれたら負け。

 

なんだか禅問答みたいでややこしいけれど、

負けない、勝たない。

つまり戦わない。

 

じゃあどうすれば?

 

ゲームだと考えたら、まずは戦う相手を知ることが第一(戦わないけど相手を観察する事は大事という意味で)

 

敵を知り己を知れば百戦危うからず。

 

自分の頭や気をフルに遣い相手の一挙手一投足に神経を張り巡らせていれば、なんとなくその人となりがわかってくる。

 

ちょっと疲れるけど、どっちみち苦手な人とのコミュニケーションというのは疲れるものだ。

 

それなら相手のペースに乗らずにうまくかわす方を選びたい。

 

コミュニケーションの最適解は自分の頭で、知恵を振り絞って考える。

誰かお手本になりそうな素敵な人の言動を見習う。

誰か尊敬できる人の姿勢を見習う。

そうやってどんどん素敵になるほど、無敵になっていくんじゃないかと思う。

 

 

最終的に目指すところはwin-win

 

高尚な道徳とは違う、もっとドライなゲームだ。

 

でも、ドライな策士になりすぎるとそれはそれで魅力がないし、計算高すぎる人は後々相手に恨まれるような勝ち方をしかねない。

目指すのはそこではない。

 

ドライでいつつ、人情を忘れないこと。

できたらユーモアを添えられれば尚よい。

 

なかなか高度なゲームである。

 

 

何をもってwin-winとするのかはその相手とその場面によるので、同じ正解が存在しない。

 

相手の性格や価値観によって接し方は変わってくるからいつも同じ攻略法が通用するとは限らない。

 

ただ、どんな相手にも通ずるルールとしては

 

「礼儀、マナーをわきまえた言動を取ること」

 

この鉄則さえ守っていれば、ワンサイドゲームになる事はそうそうない。

 

ディフェンスは鉄壁に、オフェンスは時と場合で使い分け、ほどほどにしておく。

 

間違っても礼儀やマナーを無視した言動を取らないこと。

 

礼節を欠いた人をまともに相手にしないこと。

 

そういうザコキャラと同じ土俵に立ってしまったら、自分が自分に負けることを意味する。

 

得るものも無い戦いにエネルギーを消耗し、本当に得たいものにエネルギーを使えなくなってしまうことは、いつまでも自分がザコキャラでとどまり続けるようなもの。

 

ザコなんて言い方は悪いが、きっとそれは誰しもが秘めている正しい「プライド」の持ち方だろう。

 

人を見下すのではなく、自分に負けないためのプライドだ。

 

 

そんな小難しいことを考えなくても自然体でwin-winの関係を築ける人はそれでよいけれど、

人間関係に悩みやすい人は、苦手な相手には自分の武器をアップデートしていくゲーム感覚を取り入れてみるともう少し楽になるかもよ。

 

そう考えると、人生において苦手な人というのは自分の力を鍛えてくれる相手ともいえるのかもしれない。

 

苦手なあの人も、ある人にとっては大切な人。

 

あんまりムキにならずに気楽に、適当に付き合えたらいい。

 

 

 

終わり

 

 

 

毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために ㉔

責任転嫁は成長を止める

 

毒親のスタンスは基本変わらない。

 

年齢と共に丸くなってきたりはするけれど、根本的なところはそのままだ。

 

だから喧嘩になってもいつも同じ事を繰り返し、真正面から向き合ってしまう分だけストレスが心身を蝕む。

 

結果、お互いにとって「毒」になる事の方が多いだろう。

 

これは、親に限らず他人との関係でも言えることだけれど

 

相手を変えようとするのは時間の無駄だ。

 

人は何かのきっかけで徐々に変わる事はあるにしても、誰かから言われたから変われるほど単純にできていない。

 

本人の努力で結果的に変わることはあるかもしれないが

それを期待するのは一歩間違えば相手を支配する事になり得る。

 

相手が変わらないなら自分が変わるしかない

という考え方の方がまだマシだけど、それも注意が必要だ。

 

自分が変われば相手も変わるだろうという下心のような期待は捨てた方がいい。

 

変わらない人は何をしても変わらない。

 

そして、別に変わらなくても本人にとって問題無ければそれで幸せなのだ。

 

そのままでもお互いに付き合い続けられる相性の相手であれば、一生そのままでいいのだ。

 

むしろ、下手したら変えようとしているあなたが悪者になる可能性だってある。

 

被害者が加害者になる、というやつだ。

 

 

話し合いで改善の余地が無さそうな関係性は、それ以上話し合いをすればするほど関係は悪化するし、どちらかがどこかで折り合いをつけない限り修復不可能なほどお互いを傷つけ合う事になる。

 

折り合いというのは、我慢して相手に合わせる事ではない。

もちろん、自分の言い分を押し通し言いなりにさせる事でもない。

 

お互いに聞く耳を持ち、お互いに譲歩し、お互いに改善策を見出す。

 

それが健全な関係性。

 

それが出来ない相手は身内だろうと他人だろうと不健全な関係性でしかない。

 

配慮に欠けた言動を取り、それを相手に受け入れる事を求め、受け入れられない相手を責めて更に苦しませる人間とは、潔く距離を置く覚悟が必要だ。

 

あなたが一番大切にすべきなのは自分。

 

毒気の強い人間と数時間接触するだけでもメンタルが削られて、自分の時間が奪われる。

 

時間だけならまだしも、その後もしばらく大事なことに集中する気力も削がれ、心も削られるなんて、損失が大きすぎるだろう。

 

等しく時間、お金、パワーを使っても、より幸福度が増すような相手が、付き合い続けるべき相手だ。

 

結婚式でよく使われる名言のように

喜びは倍になり、悲しみは半分になる。

 

同性、異性問わず、あなたに前向きな影響力を及ぼす相手はそんな人だ。

 

分かりやすくその逆は悪影響を及ぼす相手。

喜びは半分以下にされ、悲しみ苦しみは倍以上になる。

 

大切な自分の意思に共感もしてもらえず、神経がやられ、そんなんでは口角も運気も下がってしまう。

言い方は悪いが疫病神に取り憑かれるようなもの。

 

大体そういうネガティブな影響を及ぼす人の特徴は、責任転嫁が「過ぎる」人。

 

白黒思考で考えてしまうと辛いので、「過ぎる」人、くらいの軽い捉え方がよいのではないかと思う。

 

責任転嫁はよくないから、と何でもかんでも自己責任と捉えてしまうのもまた、自分を責め「過ぎる」人になってしまうから、そこは多少意識した方がよい。

 

そして、責任転嫁が過ぎる人は、ずっと悪い意味で変わらない。

 

精神的にずっと幼いままなのだ。

 

なぜなら、何かがあってもいつも「自分は悪くない」「自分は正しい」

「あの人が悪い」「環境が悪い」「私に原因は無い」

としか考えられないから、成長しない。

 

ずっと芯がブレない人にも見えたりするので一見強く見えるようだけど、中身は弱い。

そして浅慮。

 

だから必死で自己保身に走る。

 

自己主張の一点張りだから建設的な話し合いは出来ず、相手を威嚇したり脅したり、一転して弱者を演じたりして、自分の都合しか頭にない。

 

 

人の振り見て我が振り直せ、という諺がある。

 

自分も、そんな人にはならないようにしたい。

 

毒親育ちが親を受け入れる事は難しいけれど、いつまでも親を責め続けて生きていくのも、長い目で見るときっと自らの先々の人生を暗いものにしてしまう可能性が高い。

 

受け入れる事は難しくても、少しずつ割り切る事で一歩ずつ「自分」を取り戻し「自分」を愛せるように前に進んでいけたらそれでいい。

 

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

女の美学 ~好かれているか不安な女子へ~ 

それは誰かの幻想で

 

人付き合いにおいて、周りからの評価とか好かれるかどうかとか、って10代や20代の頃は色々不安定な中で、親先生友達含めた周りの人に認められるために頑張ってきた事が多いなと思う。

 

思春期のそれはある意味通過儀礼のようなもので。

 

心身共に成長するほど孤独ともうまく付き合えるようになってくる人はある意味健全だと思う。

 

孤独を知る人は他者を支配しないおおらかさがある。

 

好かれようとしない下心の無さは、共にいる人を自由にさせる。

 

 

人に好かれたところで特に気持ちのいいやり取りが出来るとは限らない。

(ここら辺は時と場合によるけれど)

 

好かれるためにがんばるって、とても消耗する気の遣い方。

 

利害が絡む仕事などは多少のリップサービスも仕事のうちかもしれないけど

仕事で求められるコミュニケーションてどちらかというと「好かれるため」でなくあくまで「より円滑に進めるため」に過ぎない。

 

だからマナーとモラルを守っていれば特に好かれなくても問題ないし(出世とか営業とかが絡むと好かれた方が得だけど)

 

逆にマナーやモラルすら守れない無礼者とか失礼な人は分かりやすく敬遠されがちな世界なので、わりと自分の中で線引きをした付き合いが成り立ちやすい。

 

 

で、そういうわりと明確に線引きできるマナーやモラルと違って

人の「好き、嫌い」って結構アテにならないものだ。

 

何かがきっかけで好きが嫌いになったりする事なんてザラにあるし。

その逆だってある。

それは好感度的なライトなものからディープな愛憎に至るまで、付き合いの数だけ様々なグラデーションがある。

 

その時の自分の心境によっても捉え方も変わるし。

 

そしてそれはごく自然な感情であって、本来自由でいいはずのものであり、人を縛るものではないと思う。(相手に配慮は必要だけど)

 

 

もちろん対人関係は誰だって嫌われるより好かれた方がいい。

 

気遣いは出来ないより出来た方がいい。

 

気が利く人は重宝される。

 

 

けれど

 

 

自分が喜ばないのに、好かれるために努力するというのは違う。

 

何かをした結果、好かれるならば自然な成り行きだと思うけど。

 

下心があるかないかを人って無意識に感じ取るんだろうと思う。

 

人からの評価を基準に生きてしまうとお互いに苦しいしつまらない。

 

 

そして、人の気持ち(本心)って簡単に捉えられるものではない。

 

人って案外、自分の気持ちすら曖昧なまま過ごしていたりするものだし。

 

人の腹を探っても幸せにはなれないし、探られてもいい気持ちはしない。

 

 

だから、そんな曖昧で実態の定まらない幻想に囚われるだけ、出口(答え)の無い迷路を彷徨うようなもの。

 

 

自分を出していって結果好かれるも嫌われるも、それは相手がいたら仕方のない事で。

 

相手の受け取り方や気持ち、感情までは自分にはコントロールが出来ないもの。

 

だから何を言ってもやってもいい、のではなくって

 

だからこそ、自分につまらぬ落ち度が無いように接する気遣いは大事だとも思う。

 

その結果、嫌われるならそれは上等だ。

 

そして、嫌われても陰口を叩かれても別にいいやって開き直ると、そういう面倒くさい人との距離は開いていく(かもしれない)

 

 

それで、そもそもみんなに満遍なく好かれるほど&みんなを満遍なく好きになれるほど

私ってそんなに性格よかったっけ?

そんなに気が利く女だったっけ?

そんなに「いい子」「優等生」だったっけ?

 

ってふと原点に返ってみると、全然そうじゃないわと自分が自分を冷静に戻してくれる。

 

そういう風にして自分の身の丈に合ったサイズが分かると余裕、余白も生まれて人付き合いは楽になる。

 

人間て近い存在になればなるほど、似た者同士の波長でしか一緒にいられないと思うから

より自分らしくいる事で、自ずと無理をしないで合う人が残るようになっているんだろうと思う。

 

 

学生も社会人も主婦も、一般的な価値基準に縛られて生きると、つい周りの「優等生」「理想的に見える何か」が目についたり、比べて勝手に焦ったり、落ち込んだりしてしまう事もあるけれど

 

「そもそもそれって誰かの身勝手な幻想じゃない?」

「言いたい人は勝手に言ってやがれ」と思えたら、もっと生きやすくなるのかもね。

 

 

 

終わり