毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために  ⑬

「Don`t Think Feel!!!!!!!!」 あえてアホな自分を自覚してみる

 

毒親」をテーマに書いているこのシリーズはどうしても内容が全体的に重たくなりがちだ。

 

宗教や家族不和という暗い話が多いので仕方ないのだけれど。

 

 

ただ、全てが深刻になりすぎてしまうとあんまり心身の健康にとっていいことはない。

 

だから、どこかで「自分はアホである」という自覚を持ち続けることも意外と大切なことなのだと思っている。

 

それは、決して「誰かと比べて卑屈になる自己否定」のアホということではなくて。

 

誰かと比べてアホになると変な人から無駄にバカにされたりする可能性が出てくるので

 

あくまでも「自分の中で」ひっそりと思っているくらいでよいのではないだろうかと。

 

 

日本で生まれ育ち、一般的な学校の教育を受けてきた私達は、相対的に評価されることや「何でもみんなと同じ平均的かそれ以上」であることを求められて大人になっている。

 

通知表の評価も偏差値教育も、社会に出てからの会社の評価も、大体そんな感じだ。

 

だから全面的に「しょーもないアホさ」「おバカさ」を出すことは、一般的「常識」に則ったレールを歩むほどにハードルが高いことになってしまっている。

 

まぁ、色んな人が集まる場では「無難」でいる事が自分にも周りにも極力ストレスがかからない省エネな処世術でもあるから

 

そのための「マナー」や「社会性」でもあるし、多少の仮面や演技も求められるのも円滑な人間関係に大切なことなのだけれど。

 

 

だからこそ、自分を抑えるストレスも溜まりやすくなるだけに「たまには素でアホになれる」場って絶対に必要だ。

 

 

心身共に健全に生きている人は、自然と趣味とか好きなことに夢中になる時間でバランスを取っていたりする。

 

息の抜きどころが上手なのだ。

 

水泳に例えていえば、上手に泳げる人って「力を抜く」「息継ぎ」が上手なように。

 

毒親育ちだったり元々の気質だったりと原因は色々あれど、病みやすい時って水泳でいうと「カナヅチ」みたいな感じだ。

 

力を入れて頑張っているのに、浮かない、溺れる。

息を吸いたいのに、上手く吸えない。

 

「力を抜く」「息継ぎ」にあたるのが、地上でいうと「アホになる」「好きなことをする」時間みたいなものなんじゃないかと思う。

 

 

大した「趣味」がなくても、日常の中で些細なことでいくらでもアホになれるチャンスは転がっている。

 

たとえば他愛もないバカ話で大笑いしたり、カラオケで熱唱してみたり、音楽に合わせてただただ踊る時とかっていい意味でいわゆる「アホ」になっている時だ。

 

「正しいか正しくないか」でもなく、単純に「楽しいから」とか「心地いいから」とか、「本能」で感じている部分。

 

 

ご時世的になかなか「デカい声で大笑いする」とか「カラオケ」とかの発散ってしにくくなっていたけど

 

何も必ず外に出て誰かと一緒じゃなくても、意識してアホになる事は出来る。

 

部屋で一人でいても、ジッとしていると人は内省的になりやすくなってしまうから

 

考えるよりも先に「少しだけ身体を動かす」「鼻歌を歌う」とか。

 

その時には、出来るだけ部屋で一人でいる時にまで「正しいこと」をしようとしなくていい。

 

他人がいない場所であれば、人様の迷惑や目線も気にする必要はない。

 

身体を動かすのだって「ちゃんとしないと」と思ってルールに則って動かすのではあまりアホになれない。

 

何なら出来るだけ「ルールに則らないで」「自由に」動かす。

 

たとえば、タコ踊りとか。

ドジョウすくいとか。

超絶ダサめな創作ダンスとか。

 

そんなの一人でやっている人って、どっからどう見てもしょーもないアホじゃないでしょうか。

カッコつけなくて◎。

一人でうっかり笑ってしまうかもしれんよ。

 

単純に身体をほぐすだけでリラックスできる、血の巡りもよくなる相乗効果もある。

 

何にも考えず行動あるのみ。

 

かのブルース・リー様の有名な台詞

 

考えるな、感じろ

 

Don`t Think Feel!!!!!!!!

 

だ。

 

 

何も考えずにアホになれる時間に、なぜか幸せを感じやすいのも人間の神秘。

 

 

 

 

続く