嫌い・苦手な人とは無理に付き合わない事だ。
特に40代以降は。
イヤだから何を言ってもやってもいいという事ではないけど、自分にとって最適な距離を測って調整すればいいのだ。
最低限の礼儀と共に。
10代は義務教育の中で生きていかなければならないし、そこまで割り切れないことの方が多いだろう。
植物が芽吹くように、身体も脳みそもグングン上に伸びていく10代や20代は「成長」という名がふさわしい。
成長期というのはまだ色々が確定していない不安定な時期だ。
身体にしろ、食べ物にしろ、自分の嗜好にしろ、友人づきあいにしろ、嫌いや苦手を克服したり、色んな変化を遂げやすい。
成長期に、逃げる・避ける事「だけ」が正解かのように教えてしまうのは教育上問題もあるだろう。
20代、30代は人間関係の変化も多い。
昔の友人と疎遠になったり、新たな人間関係が出来上がったり。
今までのやり方が通用しにくくなってくる事も増える。
気力、体力、経験値も個人差はあれど、明らかに心身共に脳みそも含めて顕著に「衰え」を感じ始めるのは40代以降だ。
30代は10代ほど「上り坂」でもないが「下り坂」でもない。
気力も体力も、なんだかんだでまだ若い。
人生はいくつになったって色々が移り変わっていくものだけれども。
中年になると、若い頃に比べたら色々な事が確定してくるし人生の「下り坂」に足を突っ込み始めている事にも気づく。
余談だが「40過ぎたら自分の顔に責任を持て」というのは本当だ。
「生き方」が様々なところに出てくる。
40代以降の嗜好や人間関係は「成長」というより「変化」がふさわしい。
年齢を重ねて経験値もついてくるからだ。
その経験の中には、良きも悪きも混在している。
中年になると「成長」は結果論であって、目標でもなくなってくる。
ひたすら上を目指し前向きに目標を定めて突き進む事だけが、全てではない事にも気づく。
残念ながら世の中の不条理、理不尽な事は人の数ほど存在し、時には清濁併せ吞む必要がある事も知る。
幼少期からの教育で植え付けられている「正義のヒーローが勝つ」「最後はハッピーエンド」「みんなと仲良くすべき」という理想は、必ずしも現実を生きる上で正解ではない事も知る。
人知を超えた、タイミングやご縁のようなものの力や「流れ」の中にいる事の大切さも知る。
「君子危うきに近寄らず」で、努力も虚しく友好的な関係を壊す人格の持ち主は案外いる事も知る。
「諦め」というと聞こえはよくないが、諦めの先にある「謙虚さ」が備わるのは悪い事ではない。
むしろ10代20代と同じようなテンションでいる中年の姿はお世辞にもあまり美しいとはいえない。
だから、40代を過ぎたら無理しなくていい。
苦労を買ってでもした方がいいのは、経験値も少なく気力も体力も十分に有り余っている若いうちだ。
年齢を重ねるほど、何かと闘うパワーや何かに抗う力は少なくなってくる。
人生の時間が永遠ではない事もひしひしと感じてくる。
だから苦手な人・嫌いな人にエネルギーを費やすのは得られるものが無い消耗戦でしかなく、命の無駄遣いなのだ。
分かり合えない人や苦手な事や人とは、努力をしてもしなくても、どこまでいっても平行線だったりする。
「骨折り損のくたびれ儲け」で、時間と労力と気力を費やしても得られるものはストレスや疲労感。
合う人とは相互にいいものを交換し合い活力になるのに、合わない人とは「吸い取られる」「奪われる」という表現になってしまうのも致し方ない。
自分の身の丈(力)に合った生き方を選ぶのは動物としての生存本能だ。
苦手なもの同士は別々の世界に存在し合って尊重さえしていればいい。
無駄に闘う必要はなく、距離感を取る方がお互いの幸せになる真実も沢山ある。
とはいえ、それも万人の正解ではない。
嫌いな人を好きになる努力をしたい人はすればいい。
投影や心理の法則や何かの信仰に従って「万人を愛するべき」と思う人は自分の信念に従ったらいい。
だが、それも同じく万人の正解ではない。
綺麗事が必ずしも人を幸せにするわけではないから。
「前向き」「成長」ばかりの世の中では、疲れるよな。
そんな前向き、上向き、成長「だけ」を目指してきた理想論に疲弊している現実が「脱成長論」なんじゃないかと。
勿論、それだけが全てではなくそれ「だけ」では成り立たない。
0か100か、極論で捉えると結局「どちらが正しいか」の「争い・戦い」を産みだしてしまうんだけれども
色んなものが共存し合って均衡を保てれば、いいんじゃないかと思う。
昼があれば夜がある、太陽と月、陰と陽でバランスを保っている地球のように。